女性に野球ネタは通じ辛い
居酒屋の注文は野球である。
なるほど、と膝を打った。確かに居酒屋のオーダーは打線に似ている。試合展開を読んで臨機応変に代打や代走を掛けるのにも似ている。投手の采配は回によって変わる。セオリーというものがあり、メニューそれぞれには暗に与えられた役割がある。監督は選手を率いてメークドラマしなければならない。ところでメークドラマってなかなかマヌケな語感であり字面ではないだろうか。日常生活で使うにはなかなか勇気がいる単語だ。
さて、そうと決まればオーダーを組まなければならない。残業続きで変なテンションになった私たちは、大いに盛り上がってオーダーを組んだ。
1 右 もろきゅう
2 二 たこわさ
3 三 シーザーサラダ
4 中 刺身の盛り合わせ
5 一 ホッケ
6 遊 手羽先
7 捕 ふろふき大根
8 左 だし巻き卵
9 投 鮭茶漬け
・無難である(同期)
・年寄りくさい。手羽先の冒険しなさ加減がすごい。せめて唐揚げに(後輩)
・置きに行ってる感がすごい。だけどふろふき大根と鮭茶漬けでバッテリーを組ましたのは評価する(先輩)
散々な言われようである。
だがしかし、言われてみれば肉気が無いにも程がある。魚中心のオーダーであることは明白であり、若干の胃のもたれが懸念されているところがにじみ出ている。なんということだ。ここまで性格が出るとは。
ちなみに後輩君のオーダー。
1 中 カルビ
2 遊 タン塩
3 一 ロース
4 右 ハラミ
5 三 ホルモン
6 二 サンチェ
7 左 サーロイン
8 捕 キムチ
9 投 冷麺
・お前これ焼肉屋じゃねぇか(私)
・なんでカルビ一番なの? そういうとこあるよね(同期)
・冷麺かクッパかビビンバかで戦争が起きそうな予感。DHで白飯を入れて欲しい(先輩)
若さ故の過ちが如実に感じられるオーダー。確実に後日胃がもたれる。と言ったら「そう言うと思ってサンチュ入れました」やかましい。いらん気遣いである。
先輩のオーダー。
1 一 タコのぶつ切り
2 遊 えだまめ
3 三 塩ダレキャベツ
4 右 フライドポテト
5 中 焼き鳥盛り合わせ
6 左 唐揚げ
7 捕 もつ煮
8 二 焼きおにぎり
9 投 たこわさ
・タコ好きなのが丸わかり(同期)
・バランスはいいんだけど、なんだろうこの違和感…もつ煮?(私)
・ポテト忘れてました(後輩)
無難だなーと思いながらも、最後にたこわさが来るあたりちょっと不思議なオーダー。気遣いだぜ気遣い。とは先輩の談ではあるが、タコ好きの自分が前に出ちゃってる感がすごい。
と、仕事そっちのけで盛り上がっていたら、終電逃したというオチ。
誰か気づきそうなもんだ…。
本日の夜は
名作というものは何度見ても名作である。それが名作たる条件である。
という有名な一説がありますが、冷静になって考えてみると、ニワトリタマゴもいいところで、んじゃあ新たに名作を作るためにはどうすればいいかという問いには一切答えてないところがナイスである。
名作に理由なし。王道には王道たる理由があるが、「名作」とは、言葉で表せない魅力があるように思う。
私はどちらかと言うと、映画を見た後に、大体の場合はあーだこーだ言いたい人なのだが(こないだの君の名は。の感想文を見れば分かるが)、この映画は、「ああうん。いいよね」の一言で終わって、自分の中で自分だけで楽しめればいいやという自己完結でも何ら不満じゃない数少ない映画でもあります。
というわけで本日の金曜ロードショーは「カリオストロの城」です。
読むだけで映画が再生されるんですが…。
幸せの青い鳥
いいことないかなぁと日々を過ごしていても、多分そんないいことはない。いいこと、嬉しいことは自分から作りに行かなければならないという偉人の言葉がある。まったくもってそのとおりだと思う。
まったくもってそのとおりだとは思うのだが、流石にそれで「僕はパンツが見れれば嬉しいからスカートをめくりに行く」というのは拡大解釈が過ぎるし、過去の偉人もまさか自分の言葉が犯罪行為の正当化に使われるとは微塵も思うまい。おおよそその言葉を吐いた後輩くんは目下のところツッコミすらされない有様で、放った言葉だけが宙に浮いている状態であり、ボケた本人としては今すぐカバンを抱えて逃げ出したいらしい。ボケ殺しもここまでくれば凄惨である。
とまあそんなこんなで散々な目に遭っている「スカートめくりに行く」発言ではあるが、果たして、「スカートをめくったこと」に起因したパンツを見ることは、果たしてどれほどの幸福度を得られるのだろうか。
またとんでもないところから話を展開しているもんだと自分でもびっくりなのだが、能動的に享受した幸福と受動的に享受した幸福の違いというのは、文化人類学や心理学分野で度々議論されている、いわばれっきとしたお硬い学問なのだ。大学時代にはそれらのことで論文もこさえた。真面目系バカの本領発揮である。流石にパンツの話はしなかったが。
話を戻そう。まずは「見る」ことの定義からだ。
「見る」とは、行動だ。要するに自らが「見たい」という欲求の元、能動的に、自ら動いて対象物を視界に収める行動を指す。
対して、「見える」とは受け身な部分が多い。主体は対象物にあり、自らが固定している視界に対象物が入り込んできたというニュアンスを持つ受動的行動だ。
この「見る」と「見える」の違いは、能動受動、要するに、自身の欲求が介在するかどうかという点にある。
欲求の有無というのは心理学的に見て、その後に受け取る幸福度合いに差があることが立証されている。今回の場合で言えば、見るという能動的な行動は、リスクをはらむ点が論点となる。
この議論において、どちらのほうがより幸福度が高いか決める際に難点となるのが、どちらの主張にも納得がいく部分にある。すなわち、
・「見る」という行為は、リスクを孕んだ上での報酬を期待する行為であり、そのカタルシスは、リスクを犯す分だけ上昇し、満足度が高くなる。
・「見える」という行為は、意図しない上での行為であり、単純な幸福度のプラスである。
上記二論、つまりは二次元ベクトルの度合いの問題となるのだ。
この理論に決着をつけるには、ここに個人の価値観というものが加味されなければならないのだが、そんな普遍性の低い結論を導き出したところで、納得が得られようはずもない。人はかくも悩み続けるものである。
という話を後輩くんにこんこんと説いたら、
「いや、重要なのは見られたあとのその女性の反応なんじゃないですか?」
と、真理を語り始めたので、私はこいつを「本当は天才なんじゃないだろうか」と密かに思っている。
肩こりデイズ
肩こりと付き合うようになったのはいつの頃からだろうか。
三十歳ともなると、段々と身体に不調が出てくる。それは世の常人の常であり、引きこもりだろうがガテン系のマッチョだろうが同じだ。引きこもりには引きこもりの、マッチョにはマッチョの身体的悩みがある。
どちらかと言うと引きこもりというか、ここ最近休みの日に一切家から出ないか会社から出ないかの生活を送っている私は、間違いなく引きこもりの部類に入るとは思うが、室内活動を主にしている人間の身体的悩みといえば、肩こりと腰痛であろう。
座高が高く、もともとの背の高さも相まって絶望的に机の高さが合わない。自然と前のめりになるその姿勢は、腰と肩にとんでもない負荷がかかり、慢性的な肩こりと腰痛に悩まされるというのはよく聞く話ではある。せめても、というところで家ではいい椅子を使っているが、職場となればそうはいかない。別に高い椅子を買ってくれなどとは言わない。100%自費で出すというのに、「決められた椅子を使いなさい」と会社は言う。
その背景には右にならえの日本気質が存在し、一人だけそんな特例を認めるわけにいかないという思いがあるのは分かる。分かりすぎるほどに分かる。だがしかし、その規範は従業員の健康を害してまで守らなければならないものなのかということには疑問を覚える。
椅子一つで何が変わる、と言われればそれまでではあるが、悩んでいる者としては改善される可能性があるものにならなんでもすがりたくなるものだ。10万円の椅子を買ったとしても、その分整体に通わなくて良くなるのならば、数年で確実に元は取れる。
だがまあ、椅子というものは古くから権力を誇示するために位によってその優劣を付けられてきた代表的な物だ。
そう簡単には、ことは運ばないだろうなぁと思いながら、気休めのようにサロンパスを貼る日々は続く。
みまちがいといいまつがい
果たして、「ノーバン」という言葉は、市民権を得ている言葉なのだろうか。
個人的な見解を言わせてもらえば、未だ市民権を得ていないように思う。ノーバンというのは、ノーバウンド、要するに地面につかずに目標から目標に対象を移動させることを指す。小学校の時分、ドッヂボールでは、一度地面についた球に当ってもセーフというルールがあったため、地面すれすれでキャッチに失敗した時に「ノーバンだ」「いや今のワンバンだからセーフ」だの、熾烈な言い争いが勃発した記憶がある。(ワンバン=ワンバウンドで、地面についている意)注釈入れるまでもない。
私の灰色の脳細胞の記憶が定かであれば、時分で「ノーバン」と発言したのはその時が最後であり、時期的にいえば小学五年生であり、ゆうに20年前である。それ以来、発言することもなければ耳に入ることもなかったのだ。高校生になって性懲りもなく、いちごホイップクリームサンドなどというチャラチャラしたデザートサンドイッチを賭けてドッヂボールした時にはそんな発言は出なかったように思う。
だから違和感なのだ。ネットニュースに「ノーバン」の文字が踊っているのが。
そして、その記事見出しが「橋本環奈ノーバン始球式!」となっているのだ。使い古された悪意の話はここではしないが、明らかに字面の誤認を狙ったものであることは言うまでもない。そして見るたびにリンク先をクリックしてしまうことも言うまでもないだろう。わかっている。わかってはいるのだ。いわゆる、かっぱえびせん的な魔力がそこにある。
もちろん、苦々しく思うことはあっても、それはあくまで自分に対してである。そういった「性」に対する部分は、私たち技術屋にとっては技術革新の要となりうるもので、それが商売の種になることは百も承知している。皆、口に出さないだけでその認識は漠然とながら持っているだろう。とにかく、そういった表記でアクセス数を稼ぐビジネスモデルについて文句はない。
私が苦言を呈したいのは、少しずれた部分にある。
「こないださ、またやっちゃったんだよ」
「何をですか?」
「わかっちゃいる…わかっちゃいるんだけど、つい画面に出たらクリックしちゃうんだよな。なんでだろうな。男の性なのかな…。しかもみんなクリックするもんだから、いつまでたっても注目記事から消えなくて、同じ記事を何回も何回もチェックしちゃう。その度に自分の間抜け加減が際立つんだよな…」
「ああ、ノーパン始球式の話ですか」
「……」
「……」
居酒屋だったから良かった。
あれが会社の休憩室とかだったら目も当てられない所だった。
見間違いによるサブリミナル効果で、ごっちゃになった。
ノーバンとノーパンを見間違う効果を狙うのはいいのだが、発言する際は気をつけようと思う次第でございますので、どうかそんな冷めた目で私を見ないでいただきたい。
ていうか君が振った話題だろうに。