月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

君はもう、僕の夢には出てこない

嗚呼、君の未来は確かに絵に描いた幸せではなかったかもしれない。
だがしかし、穏やかな救いは確かにあったのだろう。僕はそれだけで、君にありがとうと言える。


観てまいりました。シンエヴァンゲリオン劇場版:||。

一言で…いや、とても一言で表せるようなものではないのですが、あえて言うならば、それぞれが抱えていたわだかまりに対する、答えの集大成がそこにあったと。僕はそう思いました。

感想がこんな遅れてしまったのは、シンエヴァを見て、放心状態のままもう一回見て何となく噛み砕けたけどあれちょっと待ってどういう設定だったっけと全部今までの公式メディアを確認し直したうえでもう一回見たからです。

 

 

抱えていたわだかまりは、登場人物はもちろん、映画を見ている自分たち側への解答も意識されたものだったように思います。それゆえに、とりあえず話題になっていたから観に来ましたという人を、全力で置き去りにしていきました。この映画は本当に、「俺のエヴァ庵野の思い描いたエヴァ、どっちが正しいか確かめてやらぁ」と意気込んでいった人には、全編2時間半通してがっぷり四つで相手をしてくれますが、ただ何となく見に行った人には、ド派手な映像効果と、美術的なコントラストの画面配置の美しさ、ぬるぬる動くアニメといった、表面上の楽しさしか味わえないのではないかと思うのです。いやまぁそれだけでも十分なエンタメではあると思うのですが。おおよそアニメ技法と呼ばれるものをすべて詰め込んだとインタビューで語っている通り、映像表現で殴り掛かってくるようなインパクトがあります。

どうしてもシリーズ物は、それを見ている前提で話が進みますし、この映画に関して言えば、序破Qだけでなく、アニメ版や漫画版、旧劇版にも言及している節が随所に見られます。

そういった意味で、あの映画は、まさしく「さらばすべてのエヴァンゲリオン」でした。

当日譚でも言及したのですが、古のレイアスカ論争では、もちろんアスカ派に属していました。ただ、物語として、話の展開から考えたところで、確実にシンジとアスカがくっつくことはないだろうと、そして旧劇のあの展開。「エヴァに乗ること」でしか自分の存在意義を保てなかったアスカ。それしかなかったがゆえに、自分の目には、とても儚く、そして孤高で、魅力的に映ったのでした。

それが、展開が進むにつれ、「自分と似ている」存在に出会います。パーソナリティとしての共通項、要するに、年齢だったり、(一般的な)価値観だったりと、シンジたちと合流してから(本編に登場してから)のアスカは、それまでいた空軍の環境から一気に異なる空気感の中に突っ込まれます。

作中では明確な描写はなかったと記憶しているのですが、14歳というのは思春期とはいえ、すでに一般的な人格形成は終えている段階であり、育成環境による一般常識の形成が終了している段階です。まして、空軍のエースパイロットだったアスカは、周囲との協調性はどうあれ、軍隊内の生活を常識として認識していたと思われます。

そんなストイックな生活環境を送っていたからこその、シンジレイ両名に対する例のファーストコンタクトだったわけでしょうし、「結果」を出している相手に対する評価だったのでしょう。

一方で、異なる生活環境に置かれたストレスは計り知れないものでしょう。それも、「結果を出さないと居場所だけでなく、自分の存在意義すら危うくなる」というまさしく崖っぷちと言っても過言ではないと思います。

アスカのすごいところは、そんな極限状態に置かれても、ある程度の順応ができた点でしょう。アニメ版などではあまり描写はありませんでしたが、新劇では家で手料理を作るシーンがあり、そのカットを見て感慨深くなった記憶がよみがえります。まぁその後で一時退場になるあの場面につながるわけですが。

そして破での後、Qで眼帯を装備したアスカがシンジに強化ガラス越しに殴り掛かったあの展開。「なんであたしがあの時あんたを殴りたかったのか考えてみろ」という言葉に恥ずかしながらハッとさせられました。その後につながる答えと、アスカの望む答えにたどり着いたシンジ。あんたのことが好きだったと思うと、過去形でしかも推量という形で表現するアスカに、本質的なところはやっぱり変わっていないと感涙し、けどその言葉にたどり着くまでにどれだけの死線と葛藤があったのかと類推して、僕は描かれなかった14年間を想うのです。

もう正直これだけでおなかいっぱいなのですが、その後のアスカの心情描写と、助け出された後のシンジの返事、さらにはエンディングでケンスケの家の傍に描かれた空のエントリープラグと、そこには確かにある種の「救い」が描かれていました。

本来ね、エヴァの感想なんて言うのはここの元ネタが、ここの伏線が、ここの描写はどういった意味合いなのかといった喧々諤々、出展と根拠と二次創作が入り乱れて自らの「想い」で殴り合うというのが常だったわけですが。

派手な殴り合いが起きていない事実を見ると、25年の戦いで戦士たちが疲弊したのか。それともこの作品で振り上げたこぶしの落としどころを見つけられたのか。それは定かではありませんが、少なくとも僕の周りのオタクたちは、「よかった」と一言だけつぶやいて、穏やかな顔をしているように見えます。

それは、繰り返しになりますが、この映画が各人が求めている何らかの答えを、答えではなくても答えに近しい何かしらの糸を示せたことに他ならないのではないかと、そう思うのです。

ハッピーエンドではない。すべての謎の、すべての伏線を回収して終わったわけでもない。なんならラストシーンですら、伏線しかないといっても過言ではないカットなのに、堂々とエンドールを流して、「終劇」の二文字。この映画は2時間30分もの長丁場ですが、これだけで成り立っては決していない。それこそ、25年という歳月の末の終劇なわけです。

ありがとうございます。これでひとまず、終わりを受け入れることができそうです。
お疲れ様でした庵野監督。そして関係者の皆様。


シンエヴァ4部作を見ながら、カットごとに一時停止を挟み、思い出を語る会とかしてみたいですね。
そこまで付き合ってくれる、そこまでエヴァに思い入れのある友人は…ちょっと思い浮かばないですけど。


監督にはぜひ、新シリーズを作成していただき、エヴァ世代と今の少年少女に、新たな呪いをかけていただきたいものです。

かしこ。