月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

すっかりと

秋の季節を感じるようになってきたと思ったらしっかり暑い。

内定式という名のスーツを強引に着させる行事ではもはや拷問に感じる。まだシャツとノーネクタイでいいではないか。世の中はスーパークールビズだ。何がどうスーパーなのかは経産省に聞いていただきたい。厚生省か? どちらにしてもそのネーミングセンスは90年代そのものである。

というわけで、2ヶ月間毎日更新をしてきたわけだが、段々とクオリティの低さが目立つようになった今日此頃。別に連載記事でもなんでもないのだから、面白いことがかけなければそれはそれ。365日面白いことが書けたらそれは天才である。

連載を持つ人は必ず言う。「自分は毎日面白いことを書いている自信はない。何書いているのかわからない日だってあるし、何を書いていいかわからない日もある」と。漫画家でも物書きでもコピーライターでもそうだ。

が、求められる以上死んででも何かを書き上げるのがプロである。その心意気は、天晴という他ない。

素直にそんな存在に憧れる。

栄養のあるものの話

世間一般で言う、「栄養のあるもの」とは一体何なのか。


一人暮らしを初めて結構経つが、未だに「栄養」の概念がわからない。小学校・中学校時代の家庭科では、類まれなる料理スキルを発揮していながら、座学はさっぱりだったため、たんぱく質や脂肪、ミネラルなどの単語を聞いても「???」と頭にクエスチョンマークが浮かぶ。

ちなみに、料理のスキルが高かったのは、田舎で寿司屋というか小料理屋をやっていた祖父に「料理ができればモテる」と吹き込まれ、夏休み中泊まり込みで店を手伝った過去があるからだ。未だにまったくもってモテていない事実を鑑みると、あれは単純に労働力が欲しかっただけなんじゃないかと、20年経った今気がつき始めている。

そんな状態だから、所謂、教科書的な料理の上達方法は真っ向から無視している。知識的な免が欠落し、技術や経験だけで料理している私は、味付けに全くもって健康が考えられていないし、ワンパターンな味付けしか出来ない。ちなみに、一般的な和食は作れるが洋食はダメだ。センスの問題なのだろう。

ドバドバと醤油を使う、所謂「酒のあてになる料理」にはそれなりの自信があるが、これが「栄養のある料理」ひいては「健康的な料理」ではないのは明白だ。それくらいは私でも分かる。

では、「栄養のあるもの」とは一体何なのか。私はこれを早急に定義しなければならない。何故なら、母親から「栄養のあるものちゃんととらないと○す」という、非常に短絡的、非常にラジカル、非常に本末転倒なメールが届いたからだ。貴女は私をどうしたいのか。「不摂生で死ぬぐらいならいっそこの手で…!」とかなってるのか。

そこで、友人に聞いた所、栄養のあるものとは、すなわち旬の食材なのではないか、とのことだ。

なるほど、今でこそビニールハウスや栽培法の発達で年から年中食材には困らないが、確かに旬の食べ物は普段に比べて栄養が豊富だろう。しかも、値段が安くなる。年中課金貧乏をやっている身としては、ありがたい話である。…この事実が親のもとに晒されれば、その時点で私の命が危険にさらされる気もするが。

とにかく旬のものだ。良いことを聞いた。

というわけで秋の旬の食材。それは何と言っても茄子である。

紫の宝石と言われるだけあって、様々な調理法がある。焼き茄子、揚げ茄子もいいが、居酒屋メニュー感が拭えない。浅漬けにしたら完全に手抜きをしていると思われる。というわけで、今回は麻婆茄子を調理。ありがとうCook Do。主婦だけでなく一人暮らしの味方だよ!

短調味料の仕様によって難なく麻婆茄子を作り上げ、料理の写真を取ってお手軽送信。いい時代である。写真というこれ以上ない説得力の媒体を使うことで、母も文句は出ないだろう。これで私の命も保証された。麻婆茄子も美味いし、一件落着である。

と思った矢先。

「茄子は栄養が少ないじゃない」
「しかもそれを麻婆茄子に?」
「恐ろしいほど油を吸うのに?」
「不健康極まりない」

…神よ…。

というわけで、そのうちやられると思う。

皆様、お達者で。

 

※書いている中で調べたら、茄子にもちゃんと栄養はあるそうです。納得いかない。

 

 

妄想という名のリスクヘッジについての話

ゾンビに無限の可能性を感じる。


言わずもがな、私という存在は高校二年生から妄想の質がまったく進化しておらず、退屈な会議の最中にボーッと何を考えているかと思えば、もしこの会議室にテロリストが乗り込んできた場合の対処方法であるし、そうなった場合にスキを突いて逃げ出すには、課長なり部長なり立場のある人の尊い犠牲は致し方ないと考える次第である。頭の中は自由だが、どうも話を聞いてないことは傍目からも分かるようで、大体妄想に浸っていると睨まれる。

そんな私の愛読書の1つに、「ゾンビサバイバルガイド」という、首が360度回っちゃったのにそれに気づかないまま生活しているぶっ飛んだ人が冷静に見た世界を描いた、ゾンビが発生した時にどうすれば生き残れるかという大変有用な書がある。帯書きには「全人類必携」とも書かれており、私は密かに、この本の作者は未来人で、今のうちから現代人にゾンビに対する対処法をレクチャーしているのではないかとさえ思う。それくらい具体的で有用な書なのだ。

古今東西、ゾンビという存在を扱った物語や伝説は数多く存在する。ゲームでもアニメでもドラマでも。現実に「いない」と言い切れない恐怖が、そこにあるからなのだろうと思う。

別にゾンビのことを愛おしい、好きだ、愛している、などと言うつもりはなく、どちらかと言えば見ないほうが幸せではある。が、幽霊よりも物理的な危険をはらんでいる点において、私達は何らかの武装をしておかなければならない。

それは物理的な武器だけではなく、知識、経験、といったものも有効である。たとえ家の近くだろうと、道のつながりを知っているのと知らないのでは、生き延びれる可能性を大きく左右する。

そう、日常生活においても、ちょっと視点をずらすだけで、ゾンビに対しての有用な情報を多く手に入れることができるのだ。

食料を手に入れるのはどこが良いか。武器を調達するには。籠城するには。移動手段や情報を手に入れるためにはどういった手段が有効なのか。普段から考えている人間と考えていない人間では、生きるか死ぬかの場面で取れる選択肢の数がまるで違う。格好の妄想タイムである。


ゾンビには、浪漫がある。

 

 

道路に落ちているものはほぼ危険物であるという話

とにかく道には色々なものが落ちている。


ロールプレイングゲームの話ではない。まあ、あのシステムにも色々突っ込みたいところはある。道に「落ちて」いる薬草や毒消し草は、そこに「生えて」いるのではないかとか、それをそのまま使うのかよとか、その他の道具も完全に「落とし物」じゃないかとか。それを不正拾得しているのが実情なんじゃないかとか。ファンタジーに現実を持ち込むのは野暮か。

とにかく、ゲームの世界ではなく、現実世界でもよくよく見れば実に色々なものが落ちているのだ。

その殆どはゴミと言っても差し支えないものではあるが、総じて言えるのは、落ちているものは何かしらの「危険」をはらんでいるということだ。

ゴミなら怪我をする可能性、食品なら毒となる可能性。現代社会において、「公共の場においてある所有権の不明なもの」は、決して安全ではないのだ。

私も、道端に落ちている様々なものに出会ってきたが、先日後輩がとんでもないものに遭遇したらしい。

「ブラが落ちてて、拾って警察に届けていたので、約束の時間に遅刻しました」

客先訪問の待ち合わせに遅れてきた彼に、途方もなく壮大な言い訳をかまされた。いや、言い訳というか事実なのだろうが、あまりの事態に、遅刻を責める気すら失せた。ブラ? ブラってブラジャーのブラ?

その時は急いでいたし、もういいやとにかく仕事しなければ、という思いでスルーしていたのだが、時間が経つにつれて気になってくる。一体どういう状況で、どういう思考回路でそんな行動に出たのか。

「普通に道に落ちてたんですよ。ブラ。多分Dくらいの」
「いや、それはまぁ…何となく分かるんだけど、なんでまた警察に」
「止まっちゃったんですよね」
「え?」
「自分も『え? なんでこんなとこにブラ?』みたいに思っちゃって、見つけてからしばらく固まっちゃったんですよ。そしたら周りの人に気づかれちゃって、焦って拾っちゃったんですよ」
「完全に不審者じゃん…」
「そんなこと言ったって、そういう状況になったら先輩だってそうなりますよ」

想像してみる。

道端に落ちているブラ。確かにぽん、と置いてあればなんだろう? と思うだろう。近づいてみて、それがブラだと判明した時にどういう行動に出るか。固まるか? いや、見て見ぬふりをするか。とりあえず周りを確認するだろう。いやいや待て、そもそも判別する段階ではどうだ? なかなかに深いはずの内側が見えているのか、それとも外側に施された細かい装飾が目につくのか。そこが第一の問題である。

「…見える向きによるな」
「もうわけがわからないです」
「でも、多分見て見ぬふりをすると思うぞ」
「えー…カップで判断してません? っていうか、先輩はそうか。ブラ必要ない年れ」

黙れと言わんばかりに蹴りを入れる。誤解を生むような発言をするな。会社で。

「で、結局警察に行って大丈夫だったのか」
「大丈夫も何も落とし物届けただけですもん。拾得物の届け出もしましたよ」
「…となると」
「?」
「3ヶ月経ったら、お前のものになるのか?」
「……どうでしょう……。落とし主が現れなければ、そうなんじゃないですかね…」
「いや、例えば洗濯物が飛んだとして、『ブラ落としたんですけど』って、女性が警察署に行くか?」
「行かないと思います」
「そもそも、『干してた下着が盗まれました』ってなる可能性のほうが高くないか?」
「言われてみれば、そんな気も、します」
「……」
「…あの、身元引受人よろしくお願いします」
「おう…」

触らぬ神に祟りなし。善意が身に危険を及ぼす例を、目の当たりにした瞬間だった。

 

 

おかずのみ二つ買えばいいんじゃないかという話

弁当屋で悩むのだ。


弁当屋で悩まず注文できた試しがない。今日は上天丼だ、豪勢にエビ二本付けてやろうとほくそ笑んで弁当屋の自動ドアをくぐった瞬間、肉野菜炒め弁当を持った客とすれ違い、その食欲をそそる香りで一瞬にしてエビが駆逐され、メニューの海に投げ出されるのだ。我ながら意思が薄弱である。

死にそうになりながら真夜中と言って差し支えない、通行人も車すら通らなくなった闇世の中帰宅。スーパーは閉まってるし、コンビニの弁当はまともなのが残っていない。神は死んだのかと思わず天を仰ぐが、まだ一つの希望が残されていることに気がつく。

私の家の近くの弁当屋はなかなかにキアイの入った営業をしており、朝は9時から夜は12時まで営業し、ほぼほぼ年中無休という、労働基準法に抵触どころか真っ向から挑みかねない気迫を見せている。シフト制を組んでいるのだと思いたいが、私がいつ行っても同じ人がいる。深くは触れない。

そんな時間に弁当なんて食べているから太るんだという指摘も無きにしもあらずだが、腹が減っては戦ができぬ。と言うより、食べないと日々のストレスの消化がままならない。

まあ、結局唐揚げ弁当かのり弁当か天丼になるパターンが多いのだが。悩む割に結局注文するのはいつものやつだ。

思うに、私はこの弁当屋に安心を求めているのだと思う。

それこそ、チェーン店ではあるが、小学校の時から食べ続けている味ではある。母の味には叶うべくもないが、一人暮らしの男にとって懐かしい味なのは事実だ。

言うならば、信頼していないわけではないが、やはり安心を取りに行ってしまうのだと思う。アイスを買う時に何種類か新作を試すけど結局最後にガリガリ君をかごに入れるあの行為に似ている。失敗したくないのだ。

それは面子というよりは、「後何回こんなアイスやご飯が食べられるんだろう…」という思いに起因する。年々胃が弱ってきて、焼肉だって酒だって全盛期とは比べるべくもなく食べれなくなってきている。この味を楽しめるのは、残り少ないのかも。そう思うのだ。

一期一会。たかが食事されど食事である。悔いのないようにいきたい。


…という話を友人にしたら、「Lサイズのピザとサイドメニューにアイスまで食えるやつが何トチ狂ったこと言ってんだ」と呆れられた。

まあ、そりゃそうである。