月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

写真のダメ出しは素直に言うべきだという話

人はかくも、自分の顔に自信を持っているものだと思う。


ナルシストだとかそんなことを言うつもりはさらさらない。不特定多数に見られるものとして記録した時に、人は自分の顔に対するハードルを上げがちだという話である。

デザイン・編集の仕事をしていると、例えば何かのパンフレットに使う材料を撮影、編集することがよくある。私が撮影するわけではないのだが、カメラマンは大変だなぁといつも思う。シャッターを閉じる度、「こんな感じですが…」とクライアントにいちいち確認を取らなければならない。そして、殆どの場合、「もう一度お願いできます?」となるわけだ。

気持ちはわかる。私もどちらかと言うと、写真が苦手な方だ。髪型がおかしかったり、角度が変になってると、気になってしょうがない。普段見ないようにしている「自分自身」を客観的にさらけ出すことに抵抗があるのは理解できる。ましてや、お金を払っているのだ。少しでも良い物を、有り体に言えばカッコいいもの可愛いものキレイなものにしたいと思うのは、当然の欲求だ。

作る側からしても、できるかぎり納得の行くものを使いたいと思うことは当然のことで、こういった技術力やセンスがモノを言う仕事は、次の仕事にいかにつなげるかがキモとなるわけだ。フォトショップを入れる前にできることはやっておきたい。それがキメ顔の角度に関することでも教えてもらうのと貰わないのでは大きく違うのだ。

事実、顔というのは撮る角度によってまったく印象が異なる。だからカメラマンはいろいろな角度から撮るようにするし、光の当たる角度だって気にする。自分の気に入る一枚を撮るためでもあるが、プロはそれ以上に相手に気に入られる一枚を撮るために最大限の力を使う。

だが、編集からすればもう「いいから黙って撮って欲しいものとNGなものすべて出せやコラ」といいたい。

美的センスは人それぞれだと前に書いたが、少なくともそれに付き合う義理はこちらにはない。もういいからとられたくない角度とかシーンがあるならそれは前もって言ってくれ!

編集の線引の辛いところである。

 

 

疲れは遅れてやってくる話

ちょっと大阪に行っていた。


「ちょっと」と言って大阪に行けるようになったのかと、自らの成長に一人で感涙していたら、さくっと更新を忘れていた。つめの甘さは小学生の頃から変わらない。

今回大阪に行ったのはライブとラーメン。相変わらず大学生かと言われんばかりのラインナップだが、仕方がない。ノリが大学生なのだ。「車で日帰りで大阪に行く」と言ったら、「……若いねー大学生だねー」と美容室のオジサンに言われた。多分言葉の前の三点リーダは、高校生の頃から通ってるところなので、「アレこいつそろそろいい歳じゃなかったっけ」というオジサンの自問に使われた可能性が高い。伊達に10年以上通ってないぞ。それくらいのことは分かる。

しかし今回の遠征は懐かしさが際立っていたように思う。お昼ごはんに食べた無鉄砲という店のラーメンは相変わらず店の随分前から豚骨のにおいがしていたし、豚骨で直接殴りに来る味だった。が、6年も経つと色々環境は変わるようで、チェーン店がいっぱい出来てたし、入るまでにはテープで区切られた行列があったし、昔は床や壁までベトベトだったのにある程度軽減されていた。

時間は着実に流れているんだなぁという思いと、よくもまあそんな昔のこと覚えているなぁと自分で感心したものだ。

関西は色々思い出深い場所でもある。今度しっかり時間を取ってブラブラしたいなと思う、今日此頃。

ところで、土曜日日帰りで行ったものだから、結構体が疲れていると思いきや、本日日曜日はピンピンしていた。

月曜日が。怖い。

 

カレー作りにおける自由の話

もう、自由に疲れたのだ。


そもそも人は何を持って自由と言うのか。15の夜に盗んだバイクで走り出せば自由なのか。どこまで言ってもしがらみというものはついて回る。所謂「人が頭の中で考える自由」というものは、現実には成し得ないのかもしれない。

まあ、そんな哲学的で壮大で考えても答えなんかでそうもない問題は置いておこう。そういった広義の事由ではない。今日は狭義の自由の話だ。

人々は情報を自ら能動的に集めるすべを学び、そして現代では、一の問いに対して百の答えが帰ってくる、ノアさんもびっくりな情報の洪水にさらされている。心安らかに過ごすには、それこそ方舟にでも閉じこもって、外の文明が衰退するのを待ったほうがいいのかもしれない。

そう、人は情報によって、手段という自由を手に入れたのだ。行動をする際に、情報を収集して、よりベストな答えに近づくことができる。先人たちの知恵が、いとも簡単に手に入る、そういう環境に私たちは生きている。

その事実を如実に感じることができる事象がある。


それが、カレーである。

何入れたところでとりあえずまずくなることがない、闇鍋の救世主カレー、カレー粉さえあれば蛇でもネズミでもカエルでも美味しくいただける、一説にはゲリラ戦で真っ先に狙われるのはカレー粉の輸送部隊であり、カレー粉を押さえたものが戦争を制するとまで言わしめた、あらゆるものを駆逐する現代の魔法、カレーである。ちょっと言い過ぎた。

だが、カレーの作り方が千差万別あることはご承知のとおりだろう。そして、カレーを食べたことがない人、カレーを作ったことがない人も珍しい部類に入る。人の数だけカレーの作り方があり、それぞれにこだわりがあり、それぞれに自分のカレーがあるのだと私は思うのだ。

「カレーに水? 必要ない。食材から出る水分だけで作ることで凝縮された旨味が…」
「カレールーは3種類をブレンドして使うのがベスト。少ないと味に深みが出ないし、多すぎると味がぼける」
「鶏? 牛だろ。次点で豚」
「シーフードこそが至高」
「カレーに卵の良さがわからないとか逆にお子様」

もう、止めよう。

どう作ったって美味しいよ。カレーだもん。

多すぎる情報は時として、人を争いの道へと引きずり込む。与えられた手段と自由は、悲しみを生む刃ともなり得るのだ。

私もその昔、「カレールー? カレー粉と小麦粉から作る角煮カレーが一番うまいよ」と主張していた。だが気がついたのだ。私は、多すぎる情報から最適解を選び取ったつもりでいた。インターネットという広大な海の中で、絶え間なくやってくる波に立ち向かっていたのだ。

だが気がついた。


結局、カレールーの箱裏のとおり作るのが、コスト的にも味的にも時間的にも、一番良いのだと。

 

 

小学生の面子の話

小学生はなぜ頑なに短パンに固執するのか。


気候も涼しくなり始め、そろそろ部屋着をロンTに変えようかというこの季節、ああそろそろ透けなくなってくるんだなぁと季節の移り変わりを惜しんでいた矢先、元気に登校する小学生集団を見かけた。

朝は随分と肌寒いのに、半袖短パンで走り回るその姿に、少し懐かしさを覚えた。

かくいう私も俗にいう「短パン信者」「半袖信者」のうちの一人だったのだが、まぁ何かにつけて小学生というのは自分ルールを持っているものである。横断歩道は白色のところしか渡っちゃいけないとか、給食の冷凍みかんは一口で食べないといけないとか。出来たからなんだという話ではあるが、出来なければ友人に馬鹿にされ、何より悔しくなったものだ。

中でも「どれだけ寒かろうと雪の中であろうと短パンを履き続ける」というチャレンジは小学校高学年の中では暗黙の了解があって、たとえ風邪を引こうが頑なに短パンを履き続けるのがルールだった。

もちろん、そんな生産性も何もないバカなルールに付き合うヤツというのも限られていて、ハナから参加する気なんてない人間は、早々に長ズボンを履いてきていた。だが逆に、気合の入ったバカも居るところには居るもので、私が出会った中で一番おかしかったのは、親に無理やり履かされた長ズボンを登校途中でハサミを使って切り取り、無理やり短パンにしていたヤツもいた。

当時は「やべぇこいつは本物だ…」と恐れおののいていた。びろびろになった切り口が北斗の拳みたいな感じでかっこよかった。本人はひょろひょろだったけど。帰宅後に親にバレてめちゃめちゃ怒られたらしいけど。次の日はおとなしく長ズボン履いてきてたけど。彼の気合は本物だった。

要はそれくらい面子をかけた問題だったわけだ。脱落すれば「あいつは日和った」と言われ、給食の余り物争奪戦や、席替え時の優良席の競り合いに一歩負けてしまうのだ。そりゃ必死にもなる。

そんな話を会社で話していたのだ。

「あーでもあるある。うちの小学校もそうだった。俺はこいつらアホだなって思って見てたけど」
「話聞いてました先輩? 負けたら舐められるんですよ? 精神的優位に立たれてしまうんですよ? 灰色の学生生活なんですよ?」
「それは言いすぎだろ…どう考えても」
「いえ、でも気持ちはわかりますよ。僕もそうでしたもん。ていうか、うちの小学校は女子まで短パンはいてましたし」
「「は?」」
「え…いや、なんか、学級新聞かなんかで風邪を引かないために~みたいな特集があって、その中に普段から寒さに強くなろうみたいな記事があったんですよ。それでなんかみんなでやろうみたいな」
「「……」」

後輩の言葉に固まる先輩二人。

そして、次に発せられた言葉は。


「お前、どこ小出身だっけ?」


先輩が言ったのか、私が言ったのかは、ここでは言及しないこととする。

 

 

ゲームにハマりすぎて短文になる話

データ販売に慣れない。


いきなりアナログ感丸出しの発言で恐縮だが、電子書籍や音楽のダウンロード販売に慣れないのだ。もちろんそれらの媒体は利用しているのだが、電子書籍は、エヴァの安売り版を買ってからここ一年ほど全く買っていないし、音楽のダウンロード販売はダウンロードでしか手に入らない曲しか買っていない。

要するに仕方なしに買わざるを得ない、安い、以外で買うことがないのだ。

思うに、電子媒体の売りである省スペース性について、本棚を埋めることこそが人生の喜びと自称する私にとって、全く魅力的ではない上に、本の劣化も味としてしまう趣味も合わさって、ニーズに全く合っていないのが原因なのだろう。

結構そういう人、いそうである。