月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

妄想という名のリスクヘッジについての話

ゾンビに無限の可能性を感じる。


言わずもがな、私という存在は高校二年生から妄想の質がまったく進化しておらず、退屈な会議の最中にボーッと何を考えているかと思えば、もしこの会議室にテロリストが乗り込んできた場合の対処方法であるし、そうなった場合にスキを突いて逃げ出すには、課長なり部長なり立場のある人の尊い犠牲は致し方ないと考える次第である。頭の中は自由だが、どうも話を聞いてないことは傍目からも分かるようで、大体妄想に浸っていると睨まれる。

そんな私の愛読書の1つに、「ゾンビサバイバルガイド」という、首が360度回っちゃったのにそれに気づかないまま生活しているぶっ飛んだ人が冷静に見た世界を描いた、ゾンビが発生した時にどうすれば生き残れるかという大変有用な書がある。帯書きには「全人類必携」とも書かれており、私は密かに、この本の作者は未来人で、今のうちから現代人にゾンビに対する対処法をレクチャーしているのではないかとさえ思う。それくらい具体的で有用な書なのだ。

古今東西、ゾンビという存在を扱った物語や伝説は数多く存在する。ゲームでもアニメでもドラマでも。現実に「いない」と言い切れない恐怖が、そこにあるからなのだろうと思う。

別にゾンビのことを愛おしい、好きだ、愛している、などと言うつもりはなく、どちらかと言えば見ないほうが幸せではある。が、幽霊よりも物理的な危険をはらんでいる点において、私達は何らかの武装をしておかなければならない。

それは物理的な武器だけではなく、知識、経験、といったものも有効である。たとえ家の近くだろうと、道のつながりを知っているのと知らないのでは、生き延びれる可能性を大きく左右する。

そう、日常生活においても、ちょっと視点をずらすだけで、ゾンビに対しての有用な情報を多く手に入れることができるのだ。

食料を手に入れるのはどこが良いか。武器を調達するには。籠城するには。移動手段や情報を手に入れるためにはどういった手段が有効なのか。普段から考えている人間と考えていない人間では、生きるか死ぬかの場面で取れる選択肢の数がまるで違う。格好の妄想タイムである。


ゾンビには、浪漫がある。

 

 

道路に落ちているものはほぼ危険物であるという話

とにかく道には色々なものが落ちている。


ロールプレイングゲームの話ではない。まあ、あのシステムにも色々突っ込みたいところはある。道に「落ちて」いる薬草や毒消し草は、そこに「生えて」いるのではないかとか、それをそのまま使うのかよとか、その他の道具も完全に「落とし物」じゃないかとか。それを不正拾得しているのが実情なんじゃないかとか。ファンタジーに現実を持ち込むのは野暮か。

とにかく、ゲームの世界ではなく、現実世界でもよくよく見れば実に色々なものが落ちているのだ。

その殆どはゴミと言っても差し支えないものではあるが、総じて言えるのは、落ちているものは何かしらの「危険」をはらんでいるということだ。

ゴミなら怪我をする可能性、食品なら毒となる可能性。現代社会において、「公共の場においてある所有権の不明なもの」は、決して安全ではないのだ。

私も、道端に落ちている様々なものに出会ってきたが、先日後輩がとんでもないものに遭遇したらしい。

「ブラが落ちてて、拾って警察に届けていたので、約束の時間に遅刻しました」

客先訪問の待ち合わせに遅れてきた彼に、途方もなく壮大な言い訳をかまされた。いや、言い訳というか事実なのだろうが、あまりの事態に、遅刻を責める気すら失せた。ブラ? ブラってブラジャーのブラ?

その時は急いでいたし、もういいやとにかく仕事しなければ、という思いでスルーしていたのだが、時間が経つにつれて気になってくる。一体どういう状況で、どういう思考回路でそんな行動に出たのか。

「普通に道に落ちてたんですよ。ブラ。多分Dくらいの」
「いや、それはまぁ…何となく分かるんだけど、なんでまた警察に」
「止まっちゃったんですよね」
「え?」
「自分も『え? なんでこんなとこにブラ?』みたいに思っちゃって、見つけてからしばらく固まっちゃったんですよ。そしたら周りの人に気づかれちゃって、焦って拾っちゃったんですよ」
「完全に不審者じゃん…」
「そんなこと言ったって、そういう状況になったら先輩だってそうなりますよ」

想像してみる。

道端に落ちているブラ。確かにぽん、と置いてあればなんだろう? と思うだろう。近づいてみて、それがブラだと判明した時にどういう行動に出るか。固まるか? いや、見て見ぬふりをするか。とりあえず周りを確認するだろう。いやいや待て、そもそも判別する段階ではどうだ? なかなかに深いはずの内側が見えているのか、それとも外側に施された細かい装飾が目につくのか。そこが第一の問題である。

「…見える向きによるな」
「もうわけがわからないです」
「でも、多分見て見ぬふりをすると思うぞ」
「えー…カップで判断してません? っていうか、先輩はそうか。ブラ必要ない年れ」

黙れと言わんばかりに蹴りを入れる。誤解を生むような発言をするな。会社で。

「で、結局警察に行って大丈夫だったのか」
「大丈夫も何も落とし物届けただけですもん。拾得物の届け出もしましたよ」
「…となると」
「?」
「3ヶ月経ったら、お前のものになるのか?」
「……どうでしょう……。落とし主が現れなければ、そうなんじゃないですかね…」
「いや、例えば洗濯物が飛んだとして、『ブラ落としたんですけど』って、女性が警察署に行くか?」
「行かないと思います」
「そもそも、『干してた下着が盗まれました』ってなる可能性のほうが高くないか?」
「言われてみれば、そんな気も、します」
「……」
「…あの、身元引受人よろしくお願いします」
「おう…」

触らぬ神に祟りなし。善意が身に危険を及ぼす例を、目の当たりにした瞬間だった。

 

 

おかずのみ二つ買えばいいんじゃないかという話

弁当屋で悩むのだ。


弁当屋で悩まず注文できた試しがない。今日は上天丼だ、豪勢にエビ二本付けてやろうとほくそ笑んで弁当屋の自動ドアをくぐった瞬間、肉野菜炒め弁当を持った客とすれ違い、その食欲をそそる香りで一瞬にしてエビが駆逐され、メニューの海に投げ出されるのだ。我ながら意思が薄弱である。

死にそうになりながら真夜中と言って差し支えない、通行人も車すら通らなくなった闇世の中帰宅。スーパーは閉まってるし、コンビニの弁当はまともなのが残っていない。神は死んだのかと思わず天を仰ぐが、まだ一つの希望が残されていることに気がつく。

私の家の近くの弁当屋はなかなかにキアイの入った営業をしており、朝は9時から夜は12時まで営業し、ほぼほぼ年中無休という、労働基準法に抵触どころか真っ向から挑みかねない気迫を見せている。シフト制を組んでいるのだと思いたいが、私がいつ行っても同じ人がいる。深くは触れない。

そんな時間に弁当なんて食べているから太るんだという指摘も無きにしもあらずだが、腹が減っては戦ができぬ。と言うより、食べないと日々のストレスの消化がままならない。

まあ、結局唐揚げ弁当かのり弁当か天丼になるパターンが多いのだが。悩む割に結局注文するのはいつものやつだ。

思うに、私はこの弁当屋に安心を求めているのだと思う。

それこそ、チェーン店ではあるが、小学校の時から食べ続けている味ではある。母の味には叶うべくもないが、一人暮らしの男にとって懐かしい味なのは事実だ。

言うならば、信頼していないわけではないが、やはり安心を取りに行ってしまうのだと思う。アイスを買う時に何種類か新作を試すけど結局最後にガリガリ君をかごに入れるあの行為に似ている。失敗したくないのだ。

それは面子というよりは、「後何回こんなアイスやご飯が食べられるんだろう…」という思いに起因する。年々胃が弱ってきて、焼肉だって酒だって全盛期とは比べるべくもなく食べれなくなってきている。この味を楽しめるのは、残り少ないのかも。そう思うのだ。

一期一会。たかが食事されど食事である。悔いのないようにいきたい。


…という話を友人にしたら、「Lサイズのピザとサイドメニューにアイスまで食えるやつが何トチ狂ったこと言ってんだ」と呆れられた。

まあ、そりゃそうである。

 

写真のダメ出しは素直に言うべきだという話

人はかくも、自分の顔に自信を持っているものだと思う。


ナルシストだとかそんなことを言うつもりはさらさらない。不特定多数に見られるものとして記録した時に、人は自分の顔に対するハードルを上げがちだという話である。

デザイン・編集の仕事をしていると、例えば何かのパンフレットに使う材料を撮影、編集することがよくある。私が撮影するわけではないのだが、カメラマンは大変だなぁといつも思う。シャッターを閉じる度、「こんな感じですが…」とクライアントにいちいち確認を取らなければならない。そして、殆どの場合、「もう一度お願いできます?」となるわけだ。

気持ちはわかる。私もどちらかと言うと、写真が苦手な方だ。髪型がおかしかったり、角度が変になってると、気になってしょうがない。普段見ないようにしている「自分自身」を客観的にさらけ出すことに抵抗があるのは理解できる。ましてや、お金を払っているのだ。少しでも良い物を、有り体に言えばカッコいいもの可愛いものキレイなものにしたいと思うのは、当然の欲求だ。

作る側からしても、できるかぎり納得の行くものを使いたいと思うことは当然のことで、こういった技術力やセンスがモノを言う仕事は、次の仕事にいかにつなげるかがキモとなるわけだ。フォトショップを入れる前にできることはやっておきたい。それがキメ顔の角度に関することでも教えてもらうのと貰わないのでは大きく違うのだ。

事実、顔というのは撮る角度によってまったく印象が異なる。だからカメラマンはいろいろな角度から撮るようにするし、光の当たる角度だって気にする。自分の気に入る一枚を撮るためでもあるが、プロはそれ以上に相手に気に入られる一枚を撮るために最大限の力を使う。

だが、編集からすればもう「いいから黙って撮って欲しいものとNGなものすべて出せやコラ」といいたい。

美的センスは人それぞれだと前に書いたが、少なくともそれに付き合う義理はこちらにはない。もういいからとられたくない角度とかシーンがあるならそれは前もって言ってくれ!

編集の線引の辛いところである。

 

 

疲れは遅れてやってくる話

ちょっと大阪に行っていた。


「ちょっと」と言って大阪に行けるようになったのかと、自らの成長に一人で感涙していたら、さくっと更新を忘れていた。つめの甘さは小学生の頃から変わらない。

今回大阪に行ったのはライブとラーメン。相変わらず大学生かと言われんばかりのラインナップだが、仕方がない。ノリが大学生なのだ。「車で日帰りで大阪に行く」と言ったら、「……若いねー大学生だねー」と美容室のオジサンに言われた。多分言葉の前の三点リーダは、高校生の頃から通ってるところなので、「アレこいつそろそろいい歳じゃなかったっけ」というオジサンの自問に使われた可能性が高い。伊達に10年以上通ってないぞ。それくらいのことは分かる。

しかし今回の遠征は懐かしさが際立っていたように思う。お昼ごはんに食べた無鉄砲という店のラーメンは相変わらず店の随分前から豚骨のにおいがしていたし、豚骨で直接殴りに来る味だった。が、6年も経つと色々環境は変わるようで、チェーン店がいっぱい出来てたし、入るまでにはテープで区切られた行列があったし、昔は床や壁までベトベトだったのにある程度軽減されていた。

時間は着実に流れているんだなぁという思いと、よくもまあそんな昔のこと覚えているなぁと自分で感心したものだ。

関西は色々思い出深い場所でもある。今度しっかり時間を取ってブラブラしたいなと思う、今日此頃。

ところで、土曜日日帰りで行ったものだから、結構体が疲れていると思いきや、本日日曜日はピンピンしていた。

月曜日が。怖い。