月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

カレー作りにおける自由の話

もう、自由に疲れたのだ。


そもそも人は何を持って自由と言うのか。15の夜に盗んだバイクで走り出せば自由なのか。どこまで言ってもしがらみというものはついて回る。所謂「人が頭の中で考える自由」というものは、現実には成し得ないのかもしれない。

まあ、そんな哲学的で壮大で考えても答えなんかでそうもない問題は置いておこう。そういった広義の事由ではない。今日は狭義の自由の話だ。

人々は情報を自ら能動的に集めるすべを学び、そして現代では、一の問いに対して百の答えが帰ってくる、ノアさんもびっくりな情報の洪水にさらされている。心安らかに過ごすには、それこそ方舟にでも閉じこもって、外の文明が衰退するのを待ったほうがいいのかもしれない。

そう、人は情報によって、手段という自由を手に入れたのだ。行動をする際に、情報を収集して、よりベストな答えに近づくことができる。先人たちの知恵が、いとも簡単に手に入る、そういう環境に私たちは生きている。

その事実を如実に感じることができる事象がある。


それが、カレーである。

何入れたところでとりあえずまずくなることがない、闇鍋の救世主カレー、カレー粉さえあれば蛇でもネズミでもカエルでも美味しくいただける、一説にはゲリラ戦で真っ先に狙われるのはカレー粉の輸送部隊であり、カレー粉を押さえたものが戦争を制するとまで言わしめた、あらゆるものを駆逐する現代の魔法、カレーである。ちょっと言い過ぎた。

だが、カレーの作り方が千差万別あることはご承知のとおりだろう。そして、カレーを食べたことがない人、カレーを作ったことがない人も珍しい部類に入る。人の数だけカレーの作り方があり、それぞれにこだわりがあり、それぞれに自分のカレーがあるのだと私は思うのだ。

「カレーに水? 必要ない。食材から出る水分だけで作ることで凝縮された旨味が…」
「カレールーは3種類をブレンドして使うのがベスト。少ないと味に深みが出ないし、多すぎると味がぼける」
「鶏? 牛だろ。次点で豚」
「シーフードこそが至高」
「カレーに卵の良さがわからないとか逆にお子様」

もう、止めよう。

どう作ったって美味しいよ。カレーだもん。

多すぎる情報は時として、人を争いの道へと引きずり込む。与えられた手段と自由は、悲しみを生む刃ともなり得るのだ。

私もその昔、「カレールー? カレー粉と小麦粉から作る角煮カレーが一番うまいよ」と主張していた。だが気がついたのだ。私は、多すぎる情報から最適解を選び取ったつもりでいた。インターネットという広大な海の中で、絶え間なくやってくる波に立ち向かっていたのだ。

だが気がついた。


結局、カレールーの箱裏のとおり作るのが、コスト的にも味的にも時間的にも、一番良いのだと。

 

 

小学生の面子の話

小学生はなぜ頑なに短パンに固執するのか。


気候も涼しくなり始め、そろそろ部屋着をロンTに変えようかというこの季節、ああそろそろ透けなくなってくるんだなぁと季節の移り変わりを惜しんでいた矢先、元気に登校する小学生集団を見かけた。

朝は随分と肌寒いのに、半袖短パンで走り回るその姿に、少し懐かしさを覚えた。

かくいう私も俗にいう「短パン信者」「半袖信者」のうちの一人だったのだが、まぁ何かにつけて小学生というのは自分ルールを持っているものである。横断歩道は白色のところしか渡っちゃいけないとか、給食の冷凍みかんは一口で食べないといけないとか。出来たからなんだという話ではあるが、出来なければ友人に馬鹿にされ、何より悔しくなったものだ。

中でも「どれだけ寒かろうと雪の中であろうと短パンを履き続ける」というチャレンジは小学校高学年の中では暗黙の了解があって、たとえ風邪を引こうが頑なに短パンを履き続けるのがルールだった。

もちろん、そんな生産性も何もないバカなルールに付き合うヤツというのも限られていて、ハナから参加する気なんてない人間は、早々に長ズボンを履いてきていた。だが逆に、気合の入ったバカも居るところには居るもので、私が出会った中で一番おかしかったのは、親に無理やり履かされた長ズボンを登校途中でハサミを使って切り取り、無理やり短パンにしていたヤツもいた。

当時は「やべぇこいつは本物だ…」と恐れおののいていた。びろびろになった切り口が北斗の拳みたいな感じでかっこよかった。本人はひょろひょろだったけど。帰宅後に親にバレてめちゃめちゃ怒られたらしいけど。次の日はおとなしく長ズボン履いてきてたけど。彼の気合は本物だった。

要はそれくらい面子をかけた問題だったわけだ。脱落すれば「あいつは日和った」と言われ、給食の余り物争奪戦や、席替え時の優良席の競り合いに一歩負けてしまうのだ。そりゃ必死にもなる。

そんな話を会社で話していたのだ。

「あーでもあるある。うちの小学校もそうだった。俺はこいつらアホだなって思って見てたけど」
「話聞いてました先輩? 負けたら舐められるんですよ? 精神的優位に立たれてしまうんですよ? 灰色の学生生活なんですよ?」
「それは言いすぎだろ…どう考えても」
「いえ、でも気持ちはわかりますよ。僕もそうでしたもん。ていうか、うちの小学校は女子まで短パンはいてましたし」
「「は?」」
「え…いや、なんか、学級新聞かなんかで風邪を引かないために~みたいな特集があって、その中に普段から寒さに強くなろうみたいな記事があったんですよ。それでなんかみんなでやろうみたいな」
「「……」」

後輩の言葉に固まる先輩二人。

そして、次に発せられた言葉は。


「お前、どこ小出身だっけ?」


先輩が言ったのか、私が言ったのかは、ここでは言及しないこととする。

 

 

ゲームにハマりすぎて短文になる話

データ販売に慣れない。


いきなりアナログ感丸出しの発言で恐縮だが、電子書籍や音楽のダウンロード販売に慣れないのだ。もちろんそれらの媒体は利用しているのだが、電子書籍は、エヴァの安売り版を買ってからここ一年ほど全く買っていないし、音楽のダウンロード販売はダウンロードでしか手に入らない曲しか買っていない。

要するに仕方なしに買わざるを得ない、安い、以外で買うことがないのだ。

思うに、電子媒体の売りである省スペース性について、本棚を埋めることこそが人生の喜びと自称する私にとって、全く魅力的ではない上に、本の劣化も味としてしまう趣味も合わさって、ニーズに全く合っていないのが原因なのだろう。

結構そういう人、いそうである。

 

 

知識をつけるには興味からという話

だがしかし、という漫画がある。少し前にアニメにもなった、駄菓子を題材にした漫画である。


私はいまだに駄菓子が好きで、よくスーパーのお菓子売り場で子供に混じって大人気なく駄菓子を品定めしている。はたから見れば相当痛い大人ではあるが、好きなものは好きなのだ。しょうがない。正当化の仕方がまんま子供である。

昔、うまい棒を360本食べるというアホみたいな企画を別にメディアに載せるわけでもなくただただ自分がやってみたいからという理由で敢行して、しばらくうまい棒を見るのも嫌だったのだが、少ししたら自然に買っていた。明らかに中毒症状である。つまりまあそれくらい好きだ。

そんな自分にとって、この漫画は自分の好きなものをこれでもかと強調して紹介してくれる。登場人物が語るそのお菓子の魅力に、「ああそうだよな、そこがいいんだよな」と共感してしまう。時には自分の知らなかった遊び方や食べ方、そのお菓子の歴史なんかも知ることができて、まさに「教科書」というにふさわしい出来になっている。

そう、漫画を教科書として捉えることは、何も間違っていないのだ。まぁ、この漫画で直接的に知ることができるのは、駄菓子の知識であり、雑学レベルじゃん、と言われればそれまでなのだろうが。

もっと直接的に日本の歴史を漫画にしたものだっていくつも出版されている。学校の図書館にも「日本の歴史を取り扱っているから」という理由で置かれていた。漫画なのに。字は多くて登場人物の緻密な心情描写やストーリーなんて無いも同然だったが、それでも子供の時分には「漫画だから」という理由で読みふけっていた。決してちょっとエッチな描写があるからではない。多分。

結果として、日本の歴史に興味を持つ入口となったのはその漫画、という人も多いだろう。別に製作者とて、漫画で全部を伝えようとは思っていないだろう。少しでも興味を持ってもらえれば、という思いで(狙いで?)作成しているはずだ。漫画で興味を持って、自分で他の専門書を読んで勉強していく。

それこそが正しい勉強の仕方、知識の付け方だと思うのだ。自分が知りたいと思うことこそが知識の源泉であり、原点である。自発的、能動的な知識欲は、勉強効率を飛躍的に上げる。

必要最低限の知識はともかくとして、それ以上のものは、興味によるべきだと、思うのだ。

「…で、駄菓子についての思いが溢れすぎて、周囲に引かれた弁明は以上か?」

以上です。

飲みの席でうまい棒についての大論説をかまして、周囲からの視線がなんとも言えないものになってしまった男が、そこにいた。

 

重要度に対する重み付けの話

歯医者に行かなければならない。


この歳になって虫歯もクソもないのだが、ある日我が家の郵便ポストに「30歳の定期歯科健診のご案内」たるものが届いた。要するに切りの良い年齢だから歯の定期検診に行きなさいってことらしい。初めて届いて驚いた。…いやまあ、何度も届いていたら問題なのだが。

別に法的拘束力など微塵もなく、「ふーん、そう」ぐらいの勢いでそのまま捨ててしまってもいいのだが、こういうところで変にマメなのだ。逆に同時に届いた運転免許証の更新のお知らせは事前に来ることがわかっていたせいか、「ふーん、そう」でぎりぎりになるまでその存在を放置していた。普段車に乗らないせいもあるのだろうが、相変わらず自分の中での物事の重み付けがおかしい。

だがまあ確かに、親知らずを無理やり引っこ抜かれて以来、歯医者には行っていない。あの時はひどかった。ちょっと奥歯が痛くなって、律儀にも「虫歯だろうか」と思って歯医者に行ったら、

「親知らずですね」
「ひゃぁい(はぁ)」
「抜きましょう」
「ひゃ…あ!?(はい…え!?)」
「麻酔打ちますねー」

と、器具を口の中に突っ込まれたままの問答(意思疎通はもちろん出来ていない)の後、にこやかに麻酔を打たれて、歯を抜くと言うよりは「砕く」と表現した方がいいような抜き方で親知らずを破壊され、「あそこは絶対にヤブ医者である」と頬を腫らしたまま周囲に言いふらして以来、歯医者には行っていない。

それ以来、「ちょっと歯が痛いかな…」→「気のせいだな」の根性論で治していた(と本人は思っている)。本音を言えば、自分の今の状況がどうなっているのかも気になるところではある。手遅れになる前にもう一度しっかりしたところで見てもらったほうがいいのではないか。自分の中のもうひとりの自分がそうプレッシャーを掛けてくる。

まぁ確かに歯は大事だ。ものを食べるのを始め、喋ることにも大きく関わっている。

しゃあない、行くか。歯医者は苦手だけど仕方がない。


…けどその前にとりあえず免許更新行かないとヤバイ。失効は勘弁して欲しい。