本好きの片想い
自分自身は本好きだと認識していますが、実は自分の好きな本を他人に薦めることはあまりしないのです。
そういうことを言うと、「え、前にお勧めされた本、好きなんじゃないの」と言われるのですが、好きです。好きなんですが、好きというよりは、面白いというベクトルの方が強い本だと思います。
というのも、本の好みは千差万別。その時の気分によっても変化するものです。自分は今まで、「自分がこの本に対する気持ち」と、「相手がこの本を好きな気持ち」のバランスが取れたことが一度もないと感じているのです。
そういう所がコミュ障の一旦なような気もしますが、多くの人が好き嫌い普通ぐらいの温度感で大別してコミュニケーションをとっているのに対し、自分の中でめちゃめちゃ細分化された好きが独り歩きし、温度感の違いで「あっ…ええ、あはは、そうですよね…」みたいな反応になるのがたまらなく怖い。
ここで、自分が好きな気持ちを最大限伝えられるようなプレゼンができれば問題ないのですが、あいにくとそんなスキルを持ち合わせているわけでもなく。そもそもの話として、「人に薦められたものを素直に受け入れて試す」という行為自体が、とんでもなくハードルの高いものだと知っています。
それができるのは、偶然にも自分のニーズと相手のプレゼンがかみ合った時、もしくは薦めてくれた相手に相応の好意を持っている時なのですが、どちらも自身のお金と時間を使うという面でなかなかのハードルの高さです。それが容易ではないことを、大人になった自分たちは薄々と勘づいているのですね。
だから、本当の意味で理由なく好きという、それこそ自分という人間を形作る上の一部分となっているようなレベルの好きな本を人に話すのが怖いのです。
いえ、ただ単に好きなものを語るだけならまだいいでしょう。それが、今度の休みに時間あるんだけど、何かおすすめの本あったりする?などという質問に対しての答えになった時に、必然的に身構えてしまうのは、心のどこかで「おすすめしたのに読まなかった」「面白くなかった」というネガティブな感想や結果に耐えられないからなのだろうと自己分析。もうなんでそんなことになってしまうのか自分でもよくわかりません。
それが何か致命的な問題になるかと言われれば、そんなことは決してないのですが、生き辛いな…と思ってしまう自分もいます。
最近はようやく人の趣味や嗜好に寛容な世の中になってきたように思う一方で、周りが変わっても自意識が変わらない以上、好きなものを堂々と胸を張って言えない状態は続くんだと思ったりします。
極端に置き換えてしまえば、片思い中の恋愛にもよく似たシチュエーションですが。
皆様は、いかがでしょうか。
あの日公園でブランコに乗りながら笑いかけてくれた君の未来を、僕は今日見届ける
2021年3月8日月曜日本日。一本の映画が公開されます。
シンエヴァンゲリオン劇場版。4部作の最終作です。
それが、「いまさら」なのか、「ついに」なのか、「やっと」なのか。その形容詞は人それぞれ違うものなのだろうと思うのですが、個人的には「ついに」という感想が口をつきます。
いつまでも終わらない、いや、決まってほしくなかった結末が決まってしまうという意味では。間違いなく「ついに」という感想です。
自分がエヴァに明確に触れた作品というのは、実は漫画でもアニメでも劇場版でもなく。ゲームでした。
ゲーマーの魂百までとはよく言ったものですが、当時中学生だった自分は、エヴァンゲリオンという作品がなんかすごいという漠然とした知識しか持ち合わせていませんでした。それも、友達の間で話題になっているわけではなく、親がおそらく時間つぶしのために買ったであろう週刊誌の特集記事を読んだ記憶がおぼろげながらあります。ちなみにエロい記事でした。
そんな時に、プレイステーション2でエヴァンゲリオン2というゲームが発売されることを知った中学生の豊さんは、これは買ってみるしかないと決意します。そのゲームの触れ込みは、あったかもしれないエヴァンゲリオン、1000時間遊べるエヴァンゲリオンというなかなかのキャッチコピーがついていた記憶があります。
ゲーム自体は、エヴァの箱庭世界で、ランダム要素の強いNPCたちとプレイヤーが交流し、マルチエンディングを迎えるというシミュレーションゲームなのですが、エヴァのエの字ぐらいしかわかっていなかった自分は、すべてのことが新鮮で、のめりこむようにプレイし、思春期男子の当然の末路として、惣流アスカラングレーにやられるわけです。
数々の作品を渡り歩いてきた自分の中でも、推しはたくさんいるけれども、ガチ恋というキャラクターは本当に少なくて、その数少ないキャラのファーストコンタクトがこの時だったわけです。なかなかに衝撃的で、当時本当に寝ても覚めてもアスカのことしか考えられなく、真面目に連日連夜夢に出てきましたからね。その夢の内容を未だに覚えているというもうそれは半分現実といっても過言ではないのではないかと思うのですが過言ですか失礼しました。
そんなこんなで、ゲーム入り口だったエヴァの世界は、自分の中でその後アニメ、マンガ、劇場版、新劇場版と様々なメディアミックスで続いていくわけなのです。
ただ、そこに「終わり」がなかったんです。
20年来の付き合いになるわけですが、作品として終わりがなかった。いや、アニメが終わり、劇場版で当時の子供だった自分にはまるで理解できない締めくくりを見せられ、漫画の連載が終わり、その後さまざまな単発の企画が始まって終わっていきました。
その中で様々な意見や考えに触れ、自分なりにそれぞれを噛み砕いて飲み込んで、時には吐き出して、でもそれでも。アスカというキャラクターの魅力は衰えることはありませんでした。
一度は終わって、それでも熱が冷めやらず、もう一度始まって早13…14年前ですか。それでもまだ待ち続けるファンがいるというこの事実は、とてもすごいことだと思うのです。もちろん自分もその一人なのですが。
公開初日のレイトショーで見てこようと思います。
その感想を書くかどうかは。まぁ今の時点ではわかりませんが。
少なくとも僕は、アスカにどんな形であれ、救いがありますように。そして自分の中で、エヴァの世界に、一区切りがつけられますようにと祈りながら、映画館へ足を運ぼうと思います。
対戦、よろしくお願いいたします。
※ちなみにブログの題名は僕の夢の中の話です。最高にキモくて最高にロックで最高に青春な記憶の断片ですね。
すべらない話の話
芸と呼べるものに昇華するためには、それ相応の労力がかかると思うのです。
今やクールの定番特番となった人志松本のすべらない話という番組がございますが、あの番組が視聴率を取るようになる前は、すべらない話は鉄板話と呼ばれ、それがエピソードトークと呼ばれるようになり、一般知名度として定着したのがすべらない話なわけです。
実のところ、すべらない話というのは笑える話なわけで、それをわざわざ「すべらない」と言い直しているところがまた話術の妙の一つでもあるわけです。一つ一つの話は少なくともその当人の日常から大きくかけ離れたものではないはずですが、それを人に聞かせるためにシーンをぶつ切りにし、吟味し、組み替えて削って時には盛って。すべらない話に昇華する技は、一朝一夕では身につかないものだと思います。
自分でやろうとするとその凄さがわかる典型のようなものでして、道具も何も必要ない。ただ「話すだけ」。日常でほとんどの人が経験しているその行為で人を笑わせる。まぁお笑いというものは大体それの延長にあるわけですが、漫才のように相方はいらない、コントのように小道具もいらない。シンプルであるがゆえに逆にその難しさが際立つわけです。
で、まぁなんでこんな話をつらつらとするかと申しますとですね。すべらない話一つぐらいもっとくといいよというススメなわけです。
だけどそんなホイホイ面白い話なんかないよ。と言われるのですが、面白い話はそうそう降ってわいてきません。話自体が面白いのは、ガチャで言うならSSRです。僕らは出てきたSRやRをSSRに対抗するぐらいに育て上げなければならないのです。育て方次第で、全くSSRに引けを取らない強さにすることができるんですねこれが。
ポイントは3つ。テンポと整形とコスリです。
まずテンポについては、その事柄を分析することから始まります。
題材にしたストーリーのうち、オチはいったいどこにあるのか。そのオチの前提条件、関連する情報は何なのか。オチは何段あるのか。これを整理します。
その上で、できるならば、起承転結を意識します。ポイントは、起の部分。聞いている人に共感されるような入りだとグッドです。
そして忘れがちなのがオチの後。結の部分に当たりますが、オチで盛り上がって笑いを取った後はさっと話をまとめることを意識します。人はツッコみたい生き物です。オチに自分なりのツッコみを入れたい、感想を言いたい生き物なのです。そこで長々と話をつつけると、熱が冷めてしまうんですね。
そして整理ができて、話の流れが決まったら、次は整形。いらないところをそぎ落として、強調したい部分を盛りつけます。誤解ないように言っておきますが、盛るっていう部分は噓を言えって言っているわけではないんです。小芝居のように演じたりだとかですね。誰も不都合がないような場合は部分的に嘘や大げさに言っても大丈夫だとは思いますが、嘘で塗りたくると、大体の場合は話が薄っぺらくなります。面白くなくなってしまうんですね。本末転倒です。
自分の心情を話すときに話し口調にしてみたり、他人のセリフをその人の口調にしてみたりと、淡々と出来事を話すことだけよりも強弱がついてお勧めです。
ただ、盛ることだけを意識してしまうと、削る部分がおろそかになってしまいます。
話をまとめる際にどちらが重要かと言われれば、実は削る方だったりします。必要な部分を残して削るというのは、実はとても難易度が高いのです。
ポイントとしては、テンポを作るために、話の要素を整理しましたが、その情報を元に、要るセンテンス、要らないセンテンスを取捨選択していきます。
そして最後のコスリ。要するに何度も同じ話をして、話慣れておくということ。練習ですね。
ここで理想的なのは、まず誰に聞かせるわけでもなく、自分自身で練習するという点。はたから見れば、誰かに話しているように喋るように見えるので、正直ただの危ない人なのですが、必要な工程です。人に聞かせる前に一回通しで話してみましょう。
絶対違和感あるので。
その違和感の正体はいったい何なのか。過剰表現なのか、話を削り切れなかったのか、それとも削りすぎて意味が分からなくなったのか。そもそも話すのに飽きていないか。原因はごまんと考えられます。
そしてそれを少しずつ修正していき、これ以上は一人で修正するのは無理だなというレベルに達した時、初めて人に話を聞いてもらうのです。
これまた一人で話すときと人に話す時では感触が違います。野球のピッチャーが投げ込みをする際に、バッターがいるのといないのではまるで感触が違うのと同じぐらい、劇的に感触が違います。
相槌を打ってくれる、話の切れ目に少し言葉を入れてもらえる、それだけで話の完成度が上がってきます。
何度も話していくうちに、だんだんとしっくりくる話にまとまってくる、これですべらない話の完成です。
とまぁつらつら書きましたけど、これはあくまで自分の備忘録的な話の作り方です。
ここら辺はセンスや場数がものを言うので、いきなり初めて話したことがすごいウケることもあるでしょうし、こんなに神経質にならなくても、なんとなくで話せる人も数多くいると思います。
ただ、計算された面白さ。芸としてのすべらない話を作り上げるには、それ相応の労力がかかると思うのです。
話の展開を理解した上で、もう一度最初からその話を聞いてみると、話力の高さが理解できると思います。
すべらない話のレギュラーで言えば、松本さんや麒麟の川島さんが話の構成力で群を抜いていますね。逆に感性が鋭いのは、宮川さんやかまいたちの山内さんなんかだと思います。尊敬するわぁ…。
というわけで、すべらない話の話でした。かしこ。