ハコメガネマガジン

辛いものだけ苦手です。

新入社員時代にグーグルマップが友達だった話

仕事している風に見せる、というのは重要なことである。


世の学生諸君の中には、仕事というものを過剰に増大し評価している子が時々いて、フルタイムで正社員で働いている人間と、時給でバイトをしている人間を比べて天秤にかける子をたまに見かける。なんなら、「自分は短時間のバイトしかしてこなかったので…」とか言っちゃって、過度に自分を卑下してしまう子もいる。

そういう子を見るたびにおじさんは思うのである。「いや、短時間でしっかり仕事こなしてる君の方がよっぽど時間辺の仕事密度が高いと思うんだ」と。

要するに、人間フルタイムで働いたところで、集中してガリガリに仕事こなしている時間なんてたかが知れているという話である。1日イベントで運営を回しているような日は片時も気を抜けないなんてことも確かにあるが、机の前で延々パソコンいじってする仕事なんて、8時間コンスタントにパフォーマンス出し続けるなどという芸当は不可能である。こないだイベントで作ったペッパー君だって「ちょっと疲れたので座ってもいいですか」とつぶやいていた。いやまぁそれは「お前どうやって座るんだよその足で」というツッコミ待ちのプログラミングをした我が同僚の遊び心であるが、機械だって疲れるのだ。人間が疲れない道理がない。

それでも日本の労働基準法というヤツは平気で8時間労働を是とし、法令判例は「就業時間中は、労働に勤しまなければならない」といってタバコ休憩を否定するのである。

別に私は労働基準法に喧嘩を売りたいわけでも、判例に疑問を呈したいわけでもない。二つとも使い方次第では我ら末端の労働者を守ってくれるとても強い味方である。RPGで言えば、表記が「????」になっている未鑑定のチート武器だ。なにせ会社相手に問答無用でダメージを与えて勝利できる。鑑定・解呪(理解)しないと使用できない点まで似ている。

そんな労働者の味方が長時間ノンストップで集中して仕事せよなどと無理難題を突きつけるわけがない。となれば我らも社会人の端くれ。社会の荒波に揉まれ、一回りも二回りも成長した私達が出す答えは、「いいかバレないように適度に休憩せよ」ということである。

バレないようにという言葉に多少の語弊があるかもしれない。より正確に言うならば、「まわりの士気を下げないように休憩せよ」である。

仕事はチームワークだなんて言われて久しく、その主張には私も同意するのだが、仕事上のチームワークとは、往々にしてスタンドプレイの集合体であることが多い。要するに、「全員で一つの目標に向かって頑張るけど、自分の割り当てられた領域では、結果さえ出して回りに迷惑かけなきゃわりあい何してもオッケー」という本音がある。つまり、仕事していると個々人で進捗に差が生まれるし、やっていることがバラバラなわけで、「あっ、ちょっと暇だな」と思う人もいれば、「なんで電話取らねぇんだこのクソデブ、あたしは忙しいんだよ見てわかんだろ」といったような切羽詰まってる人もいるわけである。

ちょっと暇な人は、本当に今その時間ちょっと暇なだけであり、後2時間もすれば外出し、忙しくなる予定である。あたし忙しい人は、後30分の間に仕上げなければならない仕事があり、それが終わりさえすれば、とりあえず今日のノルマは終了、積んでいる仕事をゆったり片付ける予定である。まぁ仕事の総量自体はそんなに変わらないのだろうが、「今このとき」に限ればちょっと暇な人があからさまに休めば、あたし忙しい人は更にイライラし、生産性が下がるであろう。

だから必要なのである。適度に暇をつぶし、仕事しているように見せかけ、更に欲を言えば、何かしら自分にプラスになるような行為が。

明らかに暇をつぶすのがNGだということは上記に書いた。あんまり頻繁に席を外すのもサボってるのがわかるのでNGだ。会社のPCでネットサーフィンをするなど愚の骨頂である。証拠を残すという行為が時に命に関わるということを知らないうちはまだ社会人半人前である。かと言って自席でスマホをいじるのは、上司に肩を叩かれても致し方ない。

ということでこちらの記事である。

 


この春社会人になった新入社員諸君にはぜひ実践して、自分に合った方法を見つけていただきたいと思うのだが、個人的におすすめしないのは、延々コピペなどの生産性のないものである。真面目に精神を病む可能性があるのでおすすめしない。

まぁ、まっとうな会社であれば、マニュアルや業務に関する書籍を読むことにとやかく言う人間はいないと思うので、それで行くのがいいだろうと思う。特に就業規則等の規則系は要チェックだ。知っているのと知らないのではいざというときに打てる手段が違ってくる。

そう、いろいろなところで言われているが、自分の身は自分で守らなければならないのである。

 

いつの間にか行きつけのショップが閉店していてためていたポイントが霧散した話

エロゲ市場が危うい。


いや、斜陽の業界だというのはさんざん前から言われてきたところであり、何を今更とお思いの諸兄だろうが、話はなかなかに深刻である。

中古ショップが相次いで閉店しているのだ。

我が広島の地でも、大手中古取扱店が閉店、取扱店も徐々に規模を縮小、エロゲが買える環境というものが衰退の一途をたどっているのだ。

その一方で、新品を買う環境は無いことはない。とらのあなを始めとしたオタショップと呼ばれる実店舗もあるし、ダウンロード販売も盛況である。いや、今の業界の状況を見る限り、流通や販売、在庫のコストの掛かるパッケージ販売よりも、ダウンロード販売のほうが理にはかなっているのだろう。

だが、コンテンツの寿命として見たときに、今のこの状況はちとマズイ気がするのだ。

中古のゲームが流通しないということは、裏を返せば価格帯が高くなり、ユーザーの参入の壁が高くなってしまっていることを示す。私のような社会人中堅はともかく、社会人なりたてや大学生と言った新規参入層にとって、フルプライスのエロゲを新品で買うのはなかなかハードルが高いと言わざるをえない。

さらに言えば、新品取扱店は、基本的に在庫を持つことを良しとせず、ラインナップも近年のものに偏りがち、陳列されている棚も寂しいものである。これではジャケ買いも掘り出し物を探す楽しみもありはしない。「うわこれ懐かしい、新品で買うほどじゃないけど中古だったら安いし手元においておいてもいいかな」という真理がとかく働かないのだ。

新品で買うほどじゃないけどちょっと気になっていた作品というものはまぁどこのコンテンツでもあるわけで。そこで自分の趣味に合えば、次回作だったり続編だったりを買ってみようという気になるし、外れたとしてもダメージが少ない。もう先程から完全にユーザー目線でしか無いのだが、中古エロゲショップにはそういった需要が確かにあったのである。

また別の面では、先達から後進へ譲渡するという図式が失われつつあるという点も見逃せない。要するに、公園に打ち捨てられたエロ本の上位互換である。僕らはこれを知って大人になる。新品を、高額商品を、恥ずかしくて買えない商品を、自分の趣味嗜好とは全く異なる世界の扉を開いてくれるのは、いつだって偉大なる先輩たちだったはずなのだ。

誇れるほどゲームを買っているわけでも、中古ショップを利用していたわけでもない、しがないユーザーの一人でしかない自分にできることなどたかが知れているとは思うのだが。

今の所消費することでしか経済を回せないのが、惜しいところではある。

 

日曜日にサイゼリアに行った話

サイゼリアという店がある。


言わずとしれたファミレスである。その実、中に入れば子連れの主婦や暇を持て余した大学生の天下となっており、平日だろうと休日だろうと笑い声が絶えない。結構なことであるが、我々背広組としては、若干の居心地の悪さを感じずにはいられない。

びっくりするのは割とカップルがデートに使っているという点である。私の偏見で申し訳ないのだが、デートというものはもうちょっとこう、頑張った場所に行くものではなかろうか。インスタ映えするカフェとか、夜景のきれいなレストランとか。地下に存在する夜景もクソもないファミレスで、ミラノ風ドリアをつつきあうのが最近のトレンドだというのか。どっちかと言うとメロドラマと言うよりは一杯のかけそばの世界観に近くなってきている気がしないでもない。

少なくとも私は学生の時分にデートでファミレスに入って相手の女性に帰られたことがある。別にそれが原因で別れたりなどということはなかった(と思いたい)のだが、分かれる原因の不満の積み重ねの一つであろうことは想像に難くない。

とまあ、そんなありふれた日常が広がっているサイゼリアなのだが、なぜ突然サイゼリアの話を切り出したかといわれれば、「サイゼリアで酒が飲める」ということを発見してしまったが所以である。

もったいぶった言い方をしたが、実際はそんなことはずいぶん前から気づいていた。というか、ファミレスに入ってメニューに酒がないというのもなかなかに不自然だし、飲もうと思ったら割とどこだって飲めるのではあるが、「お酒を飲みに」ファミレスに行くことが普通の人はないのだと思う。少なくとも私はなかった。

せいぜいが「食事をメインに少しだけ飲みたい」という需要を満たすべく置かれている酒達だと思っていたのだが、ちょっと待って欲しい。それにしちゃあラインナップが豊富ではないか。

まさに世紀の大発見である。

ガストなんかはオールラウンダーで、ビール焼酎日本酒ワインと一通り揃っているし、今回話題に出しているサイゼリアはさすがイタリアンレストランと語るだけあって、ワインの品揃えがすごい。そりゃまあ、ワインバーなんかに比べればそんなでもないが、グランドメニューのボトルワインで7種類、それにハウスワインや食後酒まで揃えているとなれば、十分すぎるほどである。

それに何より値段が安い。とにかく安い。原価率とか本当に計算しているんだろうかと心配になるレベルの安さである。ワイン1杯100円、ボトルで出てくる1.5Lのワインは1,000円である。まさか100ml単位で100円を切る酒が外食にあるとは思わなかった。どうなってるんだここは。

しかも普通に飲める。そりゃ、もっと美味しいワインは世の中にゴロゴロあるだろうが、もっと不味いワインだってゴロゴロある。30そこらのペーペーがワインの何を語るかという話ではあるが、あえて言おう、ペーペーが飲むためのワインであると。だって安いんだもの。

料理だって美味いし安い。お前これ飲みに行かない理由がどこにあるんだと先輩からさんざん煽られ、ついにこの間友人と始めて飲みに行ったので、その詳細を記しておきたい。


まず第一に偉大な点。それは、「いつであろうと飲める」という点である。

休みの日に酒クズと化すと、いついかなる時だろうと「あ、今飲みたいな」という感情が芽生える。夕方ぐらいにその感情が発生すると、普通に居酒屋に行けばいいのだが、昼下がりに発生した場合は至極厄介である。なにせ店が開いていないのだ。

これはなかなか深刻な問題である。流石にコンビニの前にたむろして缶ビール、とはできない。吉野家や定食屋といった店に酒はあるが、あそこはどうやったって食事をする場所であり、客はおろか店員にすら白い目で見られる可能性が高い。というかつまみが心もとない。ついでにいうと高くつく。さぁどうする。

そういった場合に、何の躊躇もなく、「ファミレスいきゃいいじゃん」とできるのは明確な強みである。

第二に偉大な点。やはり言わずもがな値段であろう。

今回二人で飲んだオーダー
・スープ入りトマト味ボンゴレ 499円
・デミグラスソースのハンバーグ 499円
・焼き肉とハンバーグの盛り合わせ 599円
・パンチェッタのピザ 399円
・野菜ソースのグリルソーセージ 399円
・チョリソー 399円
・シェフサラダ 299円

明らかに食べ過ぎである。が、合計しても3000円ちょっとである。おかしい。(褒めてる)

これにビールとワインを追加したところで、どうやっても一人3000円は行かない。腹一杯でへべれけになってこれである。まったく楽園と言って差し支えないのではないか。

他メニューもまだまだつまみに向くものは数多くあるし、大人数で行けば行くほど、いろいろな料理をシェアできる。良さ。

料理の詳細を書き出すと孤独のグルメみたいになって来ちゃうし、今現在進行系でお腹が減っているので割愛。

また行きたいなぁ…(多分またすぐ行く)

思えば、使用頻度が恐ろしく低いことわざだという話

この正月にかるたをやった。


あまりに久しぶりすぎて、前にやったのはいつだろうと思い返してみたら、小学生の時分に冬休みに百人一首を丸暗記させられた過去が思い返された。ただでさえ短い冬休みに、古文の意味もクソもわからない小学生が百人一首を丸暗記である。私は早々に投げ出し、百人一首を普通のかるたとして遊んでいた。

だいたい、絵面がおかしいと未だに思うのだ。なんで絵が書いてあり、きらびやかな装飾が施された絵札が読み札で、そっけなく字だけ描かれた字札を取るのだ。子供心に絶対におかしいと思っていた。いや、今でも多少おかしいと思っているが。

大人になり、「まぁそういうこともあるわな」ぐらいの気構えを身に着けた今となっては、百人一首というゲームが「絵柄を集めるもの」ではなく、「自らの知識を競い合うもの」であることは認識しています。つくづく私の小学生時代には似合わないゲームです。

その点かるたはいい。小学1年生でも無理なくできる。取り札は可愛らしいデザインであり、多く集めたいと自然に思わせることができる。文章を探さなくても、頭文字さえわかれば探せる。実にシンプルなカードゲームである。キャラクターものだとなおいい。

そんなかるたを正月に従兄弟相手に遊び、小学生相手に30歳のオッサンがマジになるという地獄絵図が広がっていました。アレですね、知識や経験なんかが殆ど必要ない、短期的な記憶力と反射神経の勝負になると、積み重ねた年齢なんか微塵も役に立ちませんね。小学生の反応速度尋常じゃない。

で、その遊んでたかるたっていうのが、よくある「ことわざかるた」だったんですね。頭隠して尻隠さず、とか、馬の耳に念仏、とか書いてあるんですけど、小学生って好奇心強いですよね。取るたびにその言葉の意味を聞いてくる。

そりゃね、こっちだって30歳のいい大人ですよ。ことわざの10や20、楽勝で答えれますよ。…ただ50種類ぐらいともなると自信ないなぁ…どこかに知らない意味の言葉あったりするんじゃないかなぁと戦々恐々していたわけですよ。

で、来ました。

「犬も歩けば棒に当たる」

はお前そんな言葉も知らねぇの文系だろお前っていうか下手したら小学生だって知ってるぞこの雑魚がボキャ貧とかいうレベルじゃねぇぞ一般常識だ一般常識そんなんで社会人している己を恥じるがいいと思われるかもしれませんがちょっと待ってくださいドントステイ。いやドントステイだと意味逆だ。

「犬も歩けば棒に当たる」、ですよ?

このことわざの意味、何?

私の衝撃がわかりますか、当たり前に聞いたことがある言葉だと思うのですが、その意味が分らない。犬が? 歩いて? 棒に当たる? 何だそれ、どういう状況ですか。冷静に考えてわけがわからない。当たらないでしょ。棒。前方不注意がすぎる。

そもそも、犬と棒の間に関連性が見いだせない。河童の川流れ。関連性がある。意味がわかりやすい。豚に真珠。関連性は全く無いけど、これは関連性がないことが意味を持っている。海老で鯛を釣る。これは動詞があることで意味が生まれる例だ。

で、犬、棒、そして歩いてぶつかる…。

分からねぇ…。

そりゃ、スマホを使ってGoogle先生に教えてもらえば正しい知識がすぐに手に入りますよ。しかしこれでも文系の端くれ、それはなんだか負けたような気がする。ない頭を必死に絞って類推してみた答えがこちら。

「人気者でかっこいい(かわいい)犬でも、無防備に外を歩いていると心無い人に棒で叩かれることもあるので、常日頃から気を抜いてはならない」

何ていうんでしょうか。

小学生に伝えるには嫌に現代社会を風刺した意味合いができてしまった。明らかに故事から来ることわざの意味ではないだろこれ。しかし他に思い浮かばなかった。しょうがなくそのまま伝える。小学生は「???」という顔をしておった。うむ。正しい反応である。

とまあながながと「ことわざの意味がわからなかった」という話をしたのだが。結局正解は何だったのかというと、

犬も歩けば棒に当たるとは、でしゃばると思わぬ災難にあうという戒め。また、じっとしていないで、何でもいいからやってみれば思わぬ幸運にあうことのたとえ。

…。

なんでほぼ真逆の意味が一緒くたになっているのかという。

これだから日本語は難しい。

 

「味玉100円が高い」という主張に対して反論する話

「味玉を抱きたい」


春になってもいないのに、また豊がトチ狂ったことを言い出したと思われている。仕方がない。卵ならまだ有機物であり、わずかながらも生命の可能性がある。だからと言って、「抱かれたい」は一般的に考えておかしいのだが、世の中には様々な性癖がある。一概に否定はできない。だが味玉はどうだ。調理された料理である。意味合い的には、ラーメンに溺れるとか、オムレツにくるまれたいみたいなニュアンスを含んでいる。なるほど。ちょっとわかりやすくなった。

まあ要するに味玉とは愛である。全然「要」していないので説明するのだが、味玉ってすごくないですか。なんですかあれ。無限の可能性を感じる。

生卵でもない、ゆで卵でもない。ゆで卵はゆで卵なのだろうが、なんというか、無垢な生卵から、酸いも甘いも知り尽くしたハードボイルドな固茹で卵になるまでの間、つまり人間に例えるならば、感受性豊かな青少年期、小学生から高校生ぐらいの多感な時期に相当する。それが半熟卵なのである。

茹で時間によって成長度合いが変わるところなど、まさに人間の成長過程である。ちなみに味玉には、一般的に女子高生ぐらいが良いとされている。この意見には私も賛成である。

この時期というのは非常に難しい。世の中の多くの親御さんが苦労しているように、多感であるがゆえの好奇心に対し、正しく育ってほしいがゆえの父の愛、そしてそれを見守りながらも理解を示す母の愛、あるいはそれに変わる「何か」。正解などない中で、本人も、そして親も、試行錯誤しながらより良いと思った選択を繰り返しながら、成長していくのだ。

そもそも、卵そのものをとっても千差万別、一つ一つ同じものなどありはしない。からの割れやすさ、黄身の大きさ何もかもが違うスタートで、何もかもが違う成長。そう、一人として同じ人間などいないように、卵たちも一つとして同じ存在などいないのだ。

そうやって茹で上がった卵達。成長を見守り、これぞ食べごろだと思う成長度合いで火を止めた後も、油断は禁物である。

殻割りに失敗してしまえば、その肌を傷つけてしまう。年頃の女性の肌を傷つけるなど、言語道断である。取扱には最新の注意が求められる。

昨今では、まだ無垢な赤ちゃんの時分に、殻に穴を開けてしまう、つまり貫通させることによって、その殻剥きを確実なものとする事ができる器具も販売されている。こういったものを利用するのも一つの手である。卵達の健やかな成長のためならば、必要な出費だ。100円だし。

殻をむき終えた卵、半熟卵であるが、それはもう美しい。シミひとつない肌、水をかければその水を弾き、吸い付くようであり、弾力も適度に柔らかく、誰もが羨むような肌だ。冷静に考えればそれはそうなんだが。卵肌という言葉もあるし。

無垢から成長し、清純。純粋。そんな言葉が似合うようになった彼女たち。そのまま食べてしまいたくなるのを我慢して、次に進む。

そう、半熟卵から味玉への成長、変化。調味液に一晩つけ置くのである。

白い肌が小麦色に変化、言うならば深窓の令嬢から、活動的な部活少女へのクラスチェンジである。このあたり、どちらがいいかについての議論は、もう電車のレールがごとく平行線をたどるのでここでは割愛する。どっちもいいじゃない。部活少女ではなく、ギャルという説もあるが、その説も大いに支持したい。良さ。

このように、様々な困難を乗り越えて、味玉は完成するのである。そこにあるのは紛れもなく作り手の愛であり、この愛を理解するためには、覚悟を持って自ら味玉作りに望まなければならない。ラーメンのトッピングで100円で追加できる味玉ではあるが、その裏に隠された成長を知れば、決して高くない、いや、その成長過程を思えば、安いぐらいだと思うのだ。

艶めく味玉を箸で割りながら、私は味玉を想う。


美味い。