月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

頼まれたことも頼んだこともない話

一昔前に、「推薦状」というものが流行った。


いやまあ、未だに大学(特に理系の)に行くと、就職に際しての推薦状の話なんかが出てくるものだから、別に流行り廃りのあるものじゃなく、コンテンツとして一地位を確立させているものなのだろう。幸か不幸か、自分には30年余り「えん」もなければ「ゆかり」もない言葉だというだけの話だ。

だがここでいう推薦状というのは、そういった、「学校の先生」や「ゼミの教授」が書いた、形式張った、文字を崩しまくって全くもって読めない朱色の印影が捺してあるような格式張った推薦状ではなく、友人やバイト先の先輩、学校の後輩なんかに書いてもらう、いわゆる、より内面やその人の一面を強く押し出した「推薦状」だ。

これがまぁ猛威を奮った。学校の正式な推薦状をはねのけて、AO入試に必須とすらされていたし、自己啓発や啓蒙系のセミナーなんかに盛んに取り入れられていた。

知人に書かせるという点がミソで、頼む本人も相手に相応の労力をかけさせるわけだし、そりゃ自分のことをよく書いてくれる人に頼みたい。必然的に推薦文に記載される内容は美辞麗句に彩られ、マイナスなことも最終的にはプラスに持っていかれる、優しい争いのない世界が展開されるわけだ。

どこかのお偉いさんが、長所だけを見るゆとり教育の権化と評していたが、まぁそれについては何も言うまい。そういう側面があるのも事実だし、自分の長所を他人から褒められることでモチベーションが上がるのも確かだからだ。

推薦文そのものを仕上げる労力もそれなりのものがあり、みんながやたらめったらそんな話をしちゃったもんだから、色々めんどくさくなって廃れたんだと自分は今でも思っているが、他人から見た自分というのをおっかなびっくり見てみたい。そういう欲求があるのは確かだ。

 

地方にそんなニッチな場があるとも思えないのだけども

なんというか、読書会ってのはこんなつまらないものなのかと嘆息した次第である。


そもそも「読書」というものは、基本的に閉じた世界だ。他人とのコミュニケーションは読書という行為の前か後にしかないのであって、そういった意味で、読書におけるコミュニケーションは、随分と限定的でハードルが高い。一般的には、読書の後になされるものが読書のコミュニケーションと呼ばれるからだ。

そしてハードルが高い所以。それは少なからず、「本を読む」という行為がコミュニケーションの前提として求められるからであろう。この「本を読む」という行為を苦手に感じている人は存外に多く、読んでもマンガ、携帯小説ぐらいだ、みたいな人が多い。別にマンガや携帯小説ラノベを読むことを「読書」じゃないと論じているわけでもなんでもなく、現にうちの本棚はマンガだらけだ。寝る前に30分ぐらい何も考えずにマンガを読むのは私の日課でもある。

話がそれた。要するに、活字の羅列を読み進めることが苦手だ、苦痛だ、と思う人が多いという話だ。一方で活字中毒なんて呼ばれている人が一定数いることを考えると、もはや読書は煙草や酒と同じレベルの嗜好品だと言えるのかもしれない。抜け出せなくなったり、のめり込みすぎると周囲にそれなりに迷惑をかける所も似ている。

まぁこれは私の一方的なイメージ・思い込みでもあるから、万人に納得される話でもないことは理解できる。だが、仮にも「読書会」と銘打って、書評を議論する場であると聞かされれば、一体どんな猛者たちが跳梁跋扈しているのかわくわくしながらそこに足を踏み入れるのは、別に間違っちゃいないだろうと思うのだ。しかも書評がメインではなく、読書がメインの読書会である。このご時世にこんなにレトロで盲目的な趣味の世界があるだろうかと期待に胸を膨らませたのだ。

が。

蓋を開けてみれば何の事はない。本は本でも私が期待するような本ではなかった。それだけの話だ。

いや、わかっている。先に上げたように「本」という定義は実に曖昧なものである。漫画も小説も絵本も、なんだって等しく本である。そう、その心づもりは持っていた。別に自分のあまり読まないジャンルの話で花が咲こうと、知見を広げると思えば別に構わない。そう思っていた。

しかしまぁ。

「読書会」で自己啓発本の持ち寄り回し読みはいかがなものかと思うのである。

いやもう書評がどうの、知見がどうのという話ではない。「こういうことが書いてありますどうぞ読んでみて下さい」それは何だ。表紙2と4となんなら帯に書いてあることそのまま読んでるだけじゃないのか。「へぇこんな本が出てるんですね」ぱらぱらぱら。あなたのその行為は書店で平積みされてる本を眺めているのと一体何が変わるんでしょうか。

別にドグラ・マグラについての考察やカフカの暗喩についての話をしたいとか言うつもりもないのだが、せめて自己啓発なら自己啓発で取り扱ったテーマの反証類似の話だとか、経験から来るものだとか、そこらへんの話があってしかるべきだとは思うのだ。しかも回し読みて。金をかけない意識改革は往々にして身につかないものである。

全てを否定する気はないのだけども。

何処かに家畜人ヤプーの世界観について3時間ぐらい議論できる場はないものだろうかと思ったりもするのだ。

 

 

本「筋トレが最強のソリューションである」

落ち着いた落ち着いたと言いはしたものの、まったくもって筆不精なことに自分でも苦笑する。


溜まっていた本を読んだり、溜まっていたゲームをしたりとグダグダ毎日を過ごしていたら、一ヶ月なんていうのはあっという間である。

もちろん別にただ単に怠惰に時間を過ごしていたわけではない。新な教養を身に着けていたと言えば聞こえはいいのだが、その実身についたのは、使う機会の見当たらない人生をほんの少し豊かにする知識と、間食による脂肪ぐらいのものである。

というわけで、この一ヶ月に読んだ本の紹介をぼちぼちしていきたい。

 

筋トレが最強のソリューションである マッチョ社長が教える究極の悩み解決法

筋トレが最強のソリューションである マッチョ社長が教える究極の悩み解決法

 

  

筋トレすることにより、様々なプラスメリットがあることを時にはノリで時には論理的に説いていく本。一風変わった自己啓発本である。

個人的には筋トレは好きだ。高校時代にはインターハイに出場するような強豪チームに所属していながら、競技そっちのけでひたすら筋トレを行うという謎の行為に走っていたこともある。何の事はない。競技ではライバルに敵わないからせめて筋肉で勝ってやろうと言うだけの話である。筋トレは裏切らない。至言である。やったらやった分だけリターンがあるというのは、それだけで魅力的な事象だ。

具体的なトレーニングの方法などは殆ど触れられてはいないが、「筋トレがやりたくなる」という一点においては、かなりな効果を発揮する自己啓発本である。体を鍛えたい、痩せたいといった方がエンジンをかけるには最適な本ではなかろうか。

一点注意する点としては、この本だけを頼りに筋トレをしても、目に見えた効果が出にくいという点だろうか。ジムでトレーナーにつく、きちんとした筋トレの理論を学ぶなど、別方面でのアプローチを持ってして、初めてこの本が「筋トレ」の助けになると思う。

 

ようやく落ち着きました

ようやっとのことでデスマーチが終わりを告げ、「ああ春だなぁ」と感じる心の余裕ができました。まぁしばらくは突発的な仕事が入るかもしれませんが、とりあえず今年も冬を越すことができました。


こうやって書いていると、この文明が発達した21世紀において縄文時代もかくやというレベルの越冬危機を一人体験しているかのごとしですが、比喩でもなんでもなく身体的に不調をきたさなかったのが奇跡です。多分緊張の糸が張り詰めていたからなのでしょう。今この瞬間にそれがぷつんと切れた実感はありますので、恐らく近いうちに謎の高熱を出して寝込みます。動けるうちに病院に行ってインフルエンザの罹患証明もらってきとこうと思います。

そんな公文書偽造に加担してくれるお医者さんがいたらぜひご紹介いただきたいのですが、それはそれとして春ですね。めっきりと暖かくなりましたので、ゴールデンウィークまでにはコタツを片付けて部屋の模様替えをしたいところです。

というわけで、ようやく落ち着きました。徐々にギアを落として通常運転に戻していこうと思います。

できるビジネスパーソン

出来るビジネスパーソンは、時間を無駄にしない。


生きとし生けるものに関して、時間は平等であり、人のなせることには限界がある以上、時間効率においては限界があり、それをあげることこそが生産性をあげることに直結し、つまりは出来るビジネスパーソンとして定義できるとそういうわけだ。なるほどわかりやすい。

そう考えると、出来るビジネスパーソンの思考と、日々をスマホソーシャルゲームに捧げる豊さんの思考は同じ源流を元にしていることが一目瞭然、これはもう豊さんができるビジネスパーソンとして定義されてもおかしくないのではないのかと思う次第なのです。

朝起きてまずスマホをいじり、夜寝ている間のスタミナ回復分を消化。次にスマホをいじれるのは出勤中の電車内なのでそこまでの時間を逆算して1ポイントも無駄にすること無くスタミナ消費を行う。出勤中の電車内や仕事中の休憩時間まで気を配り、徹底的にムダを排除。スマホの充電切れというリスク回避も怠らない。

トラブルが起きても決して焦らず、一旦トイレに立つ。作業効率よりも経過時間効率を重視してプレイ。見通しが不透明ならば、常にリスクを考え、最善の手を選択する。

日常内の「スキマ時間」を完璧に使いこなしている。なんなら時間経過だけではない。ゲーム内の作業効率の計算も怠らない。トライアンドエラーでパターンを割り出し、目的までの道筋を逆算していく。

上記の文章内でゲームを例えば資格の勉強に置き換えてもいいだろう。時間経過で回復するスタミナの概念は、勉強における集中力に置き換えられる。こう考えるととんでもないポテンシャルである。自分が自分で怖い。

でも時たま思うのだ。そんなにせわしなく生きて、お前は一体何を成すつもりなのか。

過程そのものを楽しめない行為を、人は苦痛と呼ぶとは誰の言葉だったか。パターンに入りルーチン化し、作業に成り果てるそれは、学業だろうとゲームだろうと苦痛となりえてしまう。

もちろん、世の中には作業を「安心する」とか、「気持ちいい」と感じる人間がいるのも事実だ。と言うより、私がそのタイプの人間だ。スリルやハイリターンが嫌いなわけではない。が、頭を空にして行う作業に大きな魅力を感じるのだ。それがたとえ大きな成果を産まないとしても、確実に形や糧になるのであれば、それは大きな報酬である。

停滞を受け入れる事のできる人間こそが、真のできるビジネスパーソンなのかもしれない。