月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

肩こりデイズ

肩こりと付き合うようになったのはいつの頃からだろうか。


三十歳ともなると、段々と身体に不調が出てくる。それは世の常人の常であり、引きこもりだろうがガテン系のマッチョだろうが同じだ。引きこもりには引きこもりの、マッチョにはマッチョの身体的悩みがある。

どちらかと言うと引きこもりというか、ここ最近休みの日に一切家から出ないか会社から出ないかの生活を送っている私は、間違いなく引きこもりの部類に入るとは思うが、室内活動を主にしている人間の身体的悩みといえば、肩こりと腰痛であろう。

座高が高く、もともとの背の高さも相まって絶望的に机の高さが合わない。自然と前のめりになるその姿勢は、腰と肩にとんでもない負荷がかかり、慢性的な肩こりと腰痛に悩まされるというのはよく聞く話ではある。せめても、というところで家ではいい椅子を使っているが、職場となればそうはいかない。別に高い椅子を買ってくれなどとは言わない。100%自費で出すというのに、「決められた椅子を使いなさい」と会社は言う。

その背景には右にならえの日本気質が存在し、一人だけそんな特例を認めるわけにいかないという思いがあるのは分かる。分かりすぎるほどに分かる。だがしかし、その規範は従業員の健康を害してまで守らなければならないものなのかということには疑問を覚える。

椅子一つで何が変わる、と言われればそれまでではあるが、悩んでいる者としては改善される可能性があるものにならなんでもすがりたくなるものだ。10万円の椅子を買ったとしても、その分整体に通わなくて良くなるのならば、数年で確実に元は取れる。

だがまあ、椅子というものは古くから権力を誇示するために位によってその優劣を付けられてきた代表的な物だ。

そう簡単には、ことは運ばないだろうなぁと思いながら、気休めのようにサロンパスを貼る日々は続く。

 

みまちがいといいまつがい

果たして、「ノーバン」という言葉は、市民権を得ている言葉なのだろうか。


個人的な見解を言わせてもらえば、未だ市民権を得ていないように思う。ノーバンというのは、ノーバウンド、要するに地面につかずに目標から目標に対象を移動させることを指す。小学校の時分、ドッヂボールでは、一度地面についた球に当ってもセーフというルールがあったため、地面すれすれでキャッチに失敗した時に「ノーバンだ」「いや今のワンバンだからセーフ」だの、熾烈な言い争いが勃発した記憶がある。(ワンバン=ワンバウンドで、地面についている意)注釈入れるまでもない。

私の灰色の脳細胞の記憶が定かであれば、時分で「ノーバン」と発言したのはその時が最後であり、時期的にいえば小学五年生であり、ゆうに20年前である。それ以来、発言することもなければ耳に入ることもなかったのだ。高校生になって性懲りもなく、いちごホイップクリームサンドなどというチャラチャラしたデザートサンドイッチを賭けてドッヂボールした時にはそんな発言は出なかったように思う。

だから違和感なのだ。ネットニュースに「ノーバン」の文字が踊っているのが。

そして、その記事見出しが「橋本環奈ノーバン始球式!」となっているのだ。使い古された悪意の話はここではしないが、明らかに字面の誤認を狙ったものであることは言うまでもない。そして見るたびにリンク先をクリックしてしまうことも言うまでもないだろう。わかっている。わかってはいるのだ。いわゆる、かっぱえびせん的な魔力がそこにある。

もちろん、苦々しく思うことはあっても、それはあくまで自分に対してである。そういった「性」に対する部分は、私たち技術屋にとっては技術革新の要となりうるもので、それが商売の種になることは百も承知している。皆、口に出さないだけでその認識は漠然とながら持っているだろう。とにかく、そういった表記でアクセス数を稼ぐビジネスモデルについて文句はない。

私が苦言を呈したいのは、少しずれた部分にある。

「こないださ、またやっちゃったんだよ」
「何をですか?」
「わかっちゃいる…わかっちゃいるんだけど、つい画面に出たらクリックしちゃうんだよな。なんでだろうな。男の性なのかな…。しかもみんなクリックするもんだから、いつまでたっても注目記事から消えなくて、同じ記事を何回も何回もチェックしちゃう。その度に自分の間抜け加減が際立つんだよな…」
「ああ、ノーパン始球式の話ですか」
「……」
「……」

居酒屋だったから良かった。

あれが会社の休憩室とかだったら目も当てられない所だった。

見間違いによるサブリミナル効果で、ごっちゃになった。


ノーバンとノーパンを見間違う効果を狙うのはいいのだが、発言する際は気をつけようと思う次第でございますので、どうかそんな冷めた目で私を見ないでいただきたい。

ていうか君が振った話題だろうに。

 

すっかりと

秋の季節を感じるようになってきたと思ったらしっかり暑い。

内定式という名のスーツを強引に着させる行事ではもはや拷問に感じる。まだシャツとノーネクタイでいいではないか。世の中はスーパークールビズだ。何がどうスーパーなのかは経産省に聞いていただきたい。厚生省か? どちらにしてもそのネーミングセンスは90年代そのものである。

というわけで、2ヶ月間毎日更新をしてきたわけだが、段々とクオリティの低さが目立つようになった今日此頃。別に連載記事でもなんでもないのだから、面白いことがかけなければそれはそれ。365日面白いことが書けたらそれは天才である。

連載を持つ人は必ず言う。「自分は毎日面白いことを書いている自信はない。何書いているのかわからない日だってあるし、何を書いていいかわからない日もある」と。漫画家でも物書きでもコピーライターでもそうだ。

が、求められる以上死んででも何かを書き上げるのがプロである。その心意気は、天晴という他ない。

素直にそんな存在に憧れる。

栄養のあるものの話

世間一般で言う、「栄養のあるもの」とは一体何なのか。


一人暮らしを初めて結構経つが、未だに「栄養」の概念がわからない。小学校・中学校時代の家庭科では、類まれなる料理スキルを発揮していながら、座学はさっぱりだったため、たんぱく質や脂肪、ミネラルなどの単語を聞いても「???」と頭にクエスチョンマークが浮かぶ。

ちなみに、料理のスキルが高かったのは、田舎で寿司屋というか小料理屋をやっていた祖父に「料理ができればモテる」と吹き込まれ、夏休み中泊まり込みで店を手伝った過去があるからだ。未だにまったくもってモテていない事実を鑑みると、あれは単純に労働力が欲しかっただけなんじゃないかと、20年経った今気がつき始めている。

そんな状態だから、所謂、教科書的な料理の上達方法は真っ向から無視している。知識的な免が欠落し、技術や経験だけで料理している私は、味付けに全くもって健康が考えられていないし、ワンパターンな味付けしか出来ない。ちなみに、一般的な和食は作れるが洋食はダメだ。センスの問題なのだろう。

ドバドバと醤油を使う、所謂「酒のあてになる料理」にはそれなりの自信があるが、これが「栄養のある料理」ひいては「健康的な料理」ではないのは明白だ。それくらいは私でも分かる。

では、「栄養のあるもの」とは一体何なのか。私はこれを早急に定義しなければならない。何故なら、母親から「栄養のあるものちゃんととらないと○す」という、非常に短絡的、非常にラジカル、非常に本末転倒なメールが届いたからだ。貴女は私をどうしたいのか。「不摂生で死ぬぐらいならいっそこの手で…!」とかなってるのか。

そこで、友人に聞いた所、栄養のあるものとは、すなわち旬の食材なのではないか、とのことだ。

なるほど、今でこそビニールハウスや栽培法の発達で年から年中食材には困らないが、確かに旬の食べ物は普段に比べて栄養が豊富だろう。しかも、値段が安くなる。年中課金貧乏をやっている身としては、ありがたい話である。…この事実が親のもとに晒されれば、その時点で私の命が危険にさらされる気もするが。

とにかく旬のものだ。良いことを聞いた。

というわけで秋の旬の食材。それは何と言っても茄子である。

紫の宝石と言われるだけあって、様々な調理法がある。焼き茄子、揚げ茄子もいいが、居酒屋メニュー感が拭えない。浅漬けにしたら完全に手抜きをしていると思われる。というわけで、今回は麻婆茄子を調理。ありがとうCook Do。主婦だけでなく一人暮らしの味方だよ!

短調味料の仕様によって難なく麻婆茄子を作り上げ、料理の写真を取ってお手軽送信。いい時代である。写真というこれ以上ない説得力の媒体を使うことで、母も文句は出ないだろう。これで私の命も保証された。麻婆茄子も美味いし、一件落着である。

と思った矢先。

「茄子は栄養が少ないじゃない」
「しかもそれを麻婆茄子に?」
「恐ろしいほど油を吸うのに?」
「不健康極まりない」

…神よ…。

というわけで、そのうちやられると思う。

皆様、お達者で。

 

※書いている中で調べたら、茄子にもちゃんと栄養はあるそうです。納得いかない。

 

 

妄想という名のリスクヘッジについての話

ゾンビに無限の可能性を感じる。


言わずもがな、私という存在は高校二年生から妄想の質がまったく進化しておらず、退屈な会議の最中にボーッと何を考えているかと思えば、もしこの会議室にテロリストが乗り込んできた場合の対処方法であるし、そうなった場合にスキを突いて逃げ出すには、課長なり部長なり立場のある人の尊い犠牲は致し方ないと考える次第である。頭の中は自由だが、どうも話を聞いてないことは傍目からも分かるようで、大体妄想に浸っていると睨まれる。

そんな私の愛読書の1つに、「ゾンビサバイバルガイド」という、首が360度回っちゃったのにそれに気づかないまま生活しているぶっ飛んだ人が冷静に見た世界を描いた、ゾンビが発生した時にどうすれば生き残れるかという大変有用な書がある。帯書きには「全人類必携」とも書かれており、私は密かに、この本の作者は未来人で、今のうちから現代人にゾンビに対する対処法をレクチャーしているのではないかとさえ思う。それくらい具体的で有用な書なのだ。

古今東西、ゾンビという存在を扱った物語や伝説は数多く存在する。ゲームでもアニメでもドラマでも。現実に「いない」と言い切れない恐怖が、そこにあるからなのだろうと思う。

別にゾンビのことを愛おしい、好きだ、愛している、などと言うつもりはなく、どちらかと言えば見ないほうが幸せではある。が、幽霊よりも物理的な危険をはらんでいる点において、私達は何らかの武装をしておかなければならない。

それは物理的な武器だけではなく、知識、経験、といったものも有効である。たとえ家の近くだろうと、道のつながりを知っているのと知らないのでは、生き延びれる可能性を大きく左右する。

そう、日常生活においても、ちょっと視点をずらすだけで、ゾンビに対しての有用な情報を多く手に入れることができるのだ。

食料を手に入れるのはどこが良いか。武器を調達するには。籠城するには。移動手段や情報を手に入れるためにはどういった手段が有効なのか。普段から考えている人間と考えていない人間では、生きるか死ぬかの場面で取れる選択肢の数がまるで違う。格好の妄想タイムである。


ゾンビには、浪漫がある。