月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

物語には核があるという話

物語を読んでいると、しばしば「核」となる部分に気づくことがある。


物語の作り方には何通りか作り方がある。それは、「これ」を書きたかったからこの物語を書いたんだという核先行型の書き方や、とりあえず書き出してみて自分でもどっちに転がるかわからない奔放型なんかがある。厳密には、作家の数だけ書き方があるだろう。もっともらしく言っているが、あくまで私の私見だ。そんな名前が付いているかすら知らない。

詳しいところは私の預かり知るところではないが、多かれ少なかれ、物語にはメッセージがある。その作者が伝えたいこと、表現したいこと、そういったものが必ず作品にはある。少なくとも私はそう思う。

それをはっきり見せるか、それともうまく読者に隠すか。どちらがより美しいとされているかは、作者の美的センスに委ねられている。賢明な方はおわかりだと思うが、私はさっきからどっちつかずのことしか言っていない。こうすることが正解である、なんて、芸術の世界にはナンセンスだから仕方がないのだが。

話が少しずれた。「核」の話だ。

物語を読んでいて、唐突に訪れる、明らかに情報密度の違う情景。緻密に計算された演出と、前後の波の静けさからくる、畳み掛けるような描写。動と静、作品によってその違いはあるものの、読んでいて鳥肌が立つレベルで力を感じることがある。

それは、伏線という伏線を手繰り寄せて最後の最後でその糸をほぐす時に訪れるものか。それとも、何気ない日常の中で急転直下、暗転した時に訪れるものか。はたまた、その日常そのものが核となりえるのか。

作品の数だけ核がある。そして、読み手の数だけ核がある。

例えを出そうと思ったのだが、基本的に核はネタバレになるので割愛しておく。だが、小説でもアニメでもゲームでも映画でもドラマでも。その作品が魅力的だと感じるには、きっとどこかに核があるはずである。

という、受け売りの言葉に独自の解釈を混ぜてみたたわいもない話で、今日の話題は終了。

ちなみに、「君の名は。」の物語の核を考えすぎて、昨日あまり寝られなかったことを追記しておく。

…アレは、もう後2回ぐらい見ないとダメだ。視点変更モノと時間逆行モノは、一回じゃ理解が追いつかない。