あけてました
メールで、いつまで「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」と言い続けなければならないのだろうか。
止め時がわからないのだ。大体はこの三連休が明けるころには、松の内を迎え鏡開きが見えてくる。流石に鏡開きの時分となってはあけましておめでとうもないだろう。年賀状も寒中見舞いとなり、特番たちも消え、なんとなく新年のお祝いムードもお開きとなり、世間は2月3日と14日に向かって行進を始める。3日はともかく14日は早いんじゃないかと思うのだが、曰く「練習する時間がいるんだよいいからそんなこと気にせずに仕事しろ」と怒られた。
とにかく、個人的には成人の日を過ぎる頃から、なんとなくあけましておめでとうございますからフェードアウトしていくのがいいのだと思うのだが、「お世話になっております。豊です」から始まるメールに「あけましておめでとうございます、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます」などと書かれている日には、こちら側が新年を軽んじているのではないか。遠回しに「今年はよろしくしないから」と言っているような感じの悪い取引先になっていないだろうかと頭を抱えるハメになるのだ。
日に10通も20通もメールを送る仕事ならもうそんなことは考えずに機械的に処理しているのかもしれない。若しくは、「あけおめは○日まで」というようなルールが敷かれているのかもしれない。できればそういった明確なルールがほしい。こちとらTODOリストを作って仕事をしていったら「○○についてメールする」の項目がわりと後の方に残ってしまうのだ。ちなみに最後まで残るのは「電話する」項目だったりする。
もうメールの文面を考えるのは疲れたのだ。敬語の使い方にわかりやすいメールに、もう頭がこんがらがりそうなのである。だいたい、1000文字も2000文字もメール送っているわけではないのだから、言いたいことぐらい分かれよ、と思う。昨今の「新入社員はビジネスメールもかけない」とお嘆きの諸兄に言いたいのは、「あなた方の読解力の低下も相当のものですよ」の一言だ。新入社員の指導をしていても思う。書けないのも問題だが、読めないのも問題だ。
メールはメールなんだから、用件だけのぶっきらぼうでいいように思う。礼節を尽くすのはお手紙とかでいいじゃないか。メール一本打つのに何時間もかかっていてはそれこそ生産性の低下だ。やることもやれることももっとあるだろう。
「例えば?」
「このブログの更新だよ!」
「黙って仕事しろ」
怒られました。
あっ、みなさん、あけましておめでとうございます(言い忘れてた
はがす
背中の方で、肩を回して手が組めますか? ほら、こうやって。
と言われ、「そんなもん楽勝だ」と思ってやったら意外にキツくて、しばらくショックだった。
いや、言い訳をさせてもらえるならば、昔はできていたのだ。肩周りの筋肉が硬いだの何だの、これができるとすごいですよ、おぉーって。一昔前に流行った時には出来ていた。
割りと関節は柔らかい方で、前屈だってブリッジだって、手の親指を手首につけるのだってできる。あ、でも股関節が硬いから股割りは出来ない。現役時代どんなに頑張っても、毎日酢を飲んでも、こればっかりはダメだった。
話がずれたけど、要するに昔はできてたということだ。就職してデスクワークに変わって、ともすれば1日10時間以上おんなじ姿勢でパソコン打ってるんだもの。そりゃ肩もこるし筋肉も劣化する。月一で整体に行くのが常にもなる。
んで、「豊さん筋肉硬いですねーははは。そういう時は『肩甲骨はがし』ってすればいいですよ」と言って教えてもらったのが、これまたよく見る肘を頭の後ろに持ってってもう片方の手で引っ張るポーズ。よく中学や高校の部活でやるストレッチである。
「これ肩の筋肉を伸ばすやつだよね。知ってる知ってる」
「いや、形はそうなんですけど、力入れるところが違うんですよ」
曰く、その名の通り、肩甲骨を肩から浮かせるようなイメージ、肩の筋肉から剥がして肩甲骨と体の間に隙間を作るような感じで伸ばすといいらしい。
意識する箇所を変えるだけで驚くほど効果が違うとのことだが、確かにそんな気もする。
剥がしていこう。積極的に。
大晦日にて
あっという間に大晦日。あっという間に2016年が終わろうとしている。
年をとると月日の流れが早く感じるとはよく言ったもので、その言葉には諸手を挙げて賛成する。思うに、新鮮な驚きが少なく、日々を「繰り返す」ことが加速感を煽っているのだろうと思う。
勘違いしてほしくないのだが、それが悪いことだとは思わない。と言うより、月日が早く流れることを悪だと思ったことはない。と言うよりその問題は善悪では計れまい。尺度がそもそも違う。
ともかく。とりあえず今年も。無事に2016年を終えることができた。正確にはまだ後6時間ほどあるが、まあ大きな問題は起こるまい。
振り返ってみれば、挑戦に挑戦を重ねて、まぁ案の定後に残るものは話のネタにすらならない程度の籾殻なわけだが、それもまた私らしいと言えば私らしい。
来年もまた、身の程を知らずに大きくジャンプして着地に失敗してコケるのだろう。もしかしたら骨折とかするかもしれない。積極的にはゴメンだが、結果としてなるならまあ仕方がないか。
仕方ない。飛んだ先の景色を見てしまったら、人はもう一度飛んでみたくなるものだ。
need to know.などとキザにカッコつける姿に憧れないでもないが。
ダメだ。「バカになること」と知ってしまった人間は、もう戻れやしない。
バカは死なななきゃ治らないって、そういうことなんだろう。
良い年を。
アドレスの歴史は人生の縮図である可能性について
人はみな、痛いアドレスを持っているものだと思う。
それは、私たちの年代ともなれば、大体が過去のものだろうとは思うが、1つ2つぐらい黒歴史と呼ばれるアドレスを作ったことがあるだろう。
私が「メールアドレス」というものを初めて作ったのは、高校生の頃である。
今でこそ小学生でも持っている携帯電話だが、当時は高校2年~3年ぐらいで持たせてもらうのがスタンダードだったように思う。多分。そりゃ早くに持ってる奴は持っていたが、学校に携帯電話を持ってきてはいけないという校則もあって、私が買ってもらったときも、クラスの半分ぐらいの奴は持っていなかった。
初めて自分の携帯電話を持ったわけだが、それは同時に、「自分のメールアドレスを設定する」ということでもある。
今でこそランダム文字列のメールアドレスだって市民権を得ているが、当時は赤外線すら危ういレベルで、メールは直打ち、番号はワン切りで登録が基本だったため、少しでも意味がある文字列にしないと説明しづらかったことをありありと覚えている。
この「自分の好きな文字列」と言うものが曲者で、高校生の考える文字列なんてたかが知れている。好きなバンドの名前だとか、アニメの名前だとか。ある意味で今のこの個人情報保護時代より、パーソナルデータをインターネット上に公開することはご法度という空気が流れていたため、自分の名前をメールアドレスにガッツリ入れる人は多くなかった。
というわけで、黒歴史を見ていこう。
・「tukitoanatanihanatabawo@~」
明らかに黒い。真っ黒である。漆黒の闇である。
当時電撃文庫で刊行されていた「月と貴方に花束を」というタイトルそのままである。ラノベだ。
大元は「アルジャーノンに花束を」という作品の捩りなのだが、当時高校生であった私はそんなことを知る由もなく。「貴方」って書いて「あなた」って読むのがカッコいい。物語自体も面白いしこれしかないだろ。というとてつもなくひねりも何もない理由で設定した。最初の「つ」が「tsu」じゃなく、「tu」になっているあたりに、頭の悪さがにじみ出ている。
ちなみにこのアドレスの命は短かった。というのも、恐らくアドレスの「前」の所有者に至らぬ点があったらしく、登録して誰にも教えていない状態で迷惑メールがドコドコ来たからである。いちいち迷惑メール登録するのも馬鹿らしくなってソッコーで変えた。
・「faily-tail_0827@~」
先程までではないものの、なかなかに黒い。
ローマ字から進化し、覚えたての英語を使い、記号と文字列を使うことを覚えた段階である。こうやって見ると、人間の進化過程を辿っているようで興味深い。やっている本人は自虐と言いつつも精神にダメージを負っている。
ちなみに言っておくと、有名なマンガの「FAILY TAIL」とは別物である。当時はまだ「RAVE」をガンガンにやっていた。エリー派が幅を利かせる中でカトレア派の私はなかなかに肩身の狭い思いをしていた。…いやその話はまた今度だ。単純に「おとぎ話」というロマンチックさに惹かれただけである。今多分これを読んでいる人にも引かれている。
後ろにくっついている4桁の数字はそのものズバリ誕生日である。
この誕生日が曲者だった。
当時、一体どこからそんな頭にマッシュルームが生えてきそうな噂が出てきたのかと問いただしたいのだが、「メールアドレスに好きな人の誕生日を入れると恋愛が成就する」というデマが蔓延した。
悪質である。
非常に悪質である。
そして何を思ったかそのデマを信じてしまった、それこそマッシュルームどころか頭にベニテングダケでも生えて養分抜き取られてるんじゃないかという存在が私である。
まんまとデマに踊らされてメールアドレスを設定したものだからなかなかな騒ぎになった。
顛末を思い出そうとすると脳になかなかな負荷がかかるので詳しくは割愛するが、これもまた短命で終了した。(当たり前である)
・「meets-again~」
極めつけはギャルゲのBGMタイトルである。
忘れもしない、「First☆Kiss物語2」のかりんシナリオで流れる個別BGMのタイトルである。
当時ですらリメイクで出されたソフトだったので、もはや周囲に分かる人間などいるはずもなく、心置きなく長い間利用していた。我ながらニッチ過ぎるところをついたものだと今でも思う。
もうこの頃になると、段々と迷惑メール対処も携帯電話会社の方で頑張ってくれるようで、どんなアドレスにしたところで迷惑メールに悩まされることは少なくなった。
と言うより、段々と他の連絡手段である、ショートメールやクラウドメールの方が使い勝手が良くなってきて、自然と携帯メールアドレスというものを使わなくなってきていた。
結局この代のアドレスを7年ぐらい使い、その後はランダム文字列に移行したのだ。
このように、携帯メールアドレスというものにはドラマがあり、物語があり、その人間の黒歴史が大体の場合隠れている。
…だから間違っても、不用意に意味深なメールアドレスの「意味」を求めてはいけない。
とんでもないものが出てくる可能性すらあるのだから。
意識の外へ
人は、刺激に対して、慣れる生き物である。
悲しいかな、喉元過ぎれば熱さ忘れる、それは別に加齢によるものではない。人は確かに「閃き」を持っているが、それが記憶として定着し、形にできるのは、ごく一部の才能を持った人間である。
先日、こんなことがあった。
出先から戻ってきて、何の気なしに後輩くんのデスクを見ると、デュアルディスプレイになったパソコン画面のうち、サブディスプレイの画面のど真ん中に付箋が無造作に貼られていた。
明らかにディスプレイをコルクボード扱いしているが、ディスプレイの使い方なんて人それぞれだわな、と一人納得してカバンを置いてコートを脱いでパソコンの電源を入れて、
…普通に使っておるな。
視線を外せなかった私の負けなのか、後輩くんはでかでかと付箋を貼られたディスプレイを普通に使っている。明らかに使いにくいだろ。なんでそんなど真ん中に貼ってるんだと。
いわく、「こうすれば絶対に見落とさないじゃないですか。ライフハックですよライフハック」
明らかにお前ライフハックって言いたいだけだろうとは思ったが、なるほど、確かにそれだけ目立てば忘れまい。
よくパソコンのディスプレイの縁に付箋をベタベタ貼る人がいるが(例に漏れず私もそういう人の一人だ)、それはしばらくして「景色」になる。要するに意識の外に行く、見慣れてしまうのだ。
そういう意味では、画面の真ん中にあるというのは慣れない。と言うか邪魔だ。作業効率が落ちて仕方がない。そうまでして忘れてはいけない用件とは一体何なのか。
「14:00 見積り書 連絡」
……。おかしい。私が出先で腕時計を見て「うわもうこんな時間だ」と思った時間が書いてある。
時計を見る。15時半。そうだね、世界はそれでも回っている。
ドヤ顔の後輩は、一瞬にして固まり、慌てて内線を取って何処かにかけはじめ、私は一連のやり取りを忘れることにした。
いや、忘れようと思わなくても、忘れるもんだ。人間は。それも、慣れの一つである。