月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

幸せの青い鳥

いいことないかなぁと日々を過ごしていても、多分そんないいことはない。いいこと、嬉しいことは自分から作りに行かなければならないという偉人の言葉がある。まったくもってそのとおりだと思う。


まったくもってそのとおりだとは思うのだが、流石にそれで「僕はパンツが見れれば嬉しいからスカートをめくりに行く」というのは拡大解釈が過ぎるし、過去の偉人もまさか自分の言葉が犯罪行為の正当化に使われるとは微塵も思うまい。おおよそその言葉を吐いた後輩くんは目下のところツッコミすらされない有様で、放った言葉だけが宙に浮いている状態であり、ボケた本人としては今すぐカバンを抱えて逃げ出したいらしい。ボケ殺しもここまでくれば凄惨である。

とまあそんなこんなで散々な目に遭っている「スカートめくりに行く」発言ではあるが、果たして、「スカートをめくったこと」に起因したパンツを見ることは、果たしてどれほどの幸福度を得られるのだろうか。

またとんでもないところから話を展開しているもんだと自分でもびっくりなのだが、能動的に享受した幸福と受動的に享受した幸福の違いというのは、文化人類学や心理学分野で度々議論されている、いわばれっきとしたお硬い学問なのだ。大学時代にはそれらのことで論文もこさえた。真面目系バカの本領発揮である。流石にパンツの話はしなかったが。

話を戻そう。まずは「見る」ことの定義からだ。

「見る」とは、行動だ。要するに自らが「見たい」という欲求の元、能動的に、自ら動いて対象物を視界に収める行動を指す。

対して、「見える」とは受け身な部分が多い。主体は対象物にあり、自らが固定している視界に対象物が入り込んできたというニュアンスを持つ受動的行動だ。

この「見る」と「見える」の違いは、能動受動、要するに、自身の欲求が介在するかどうかという点にある。

欲求の有無というのは心理学的に見て、その後に受け取る幸福度合いに差があることが立証されている。今回の場合で言えば、見るという能動的な行動は、リスクをはらむ点が論点となる。

この議論において、どちらのほうがより幸福度が高いか決める際に難点となるのが、どちらの主張にも納得がいく部分にある。すなわち、

・「見る」という行為は、リスクを孕んだ上での報酬を期待する行為であり、そのカタルシスは、リスクを犯す分だけ上昇し、満足度が高くなる。

・「見える」という行為は、意図しない上での行為であり、単純な幸福度のプラスである。

上記二論、つまりは二次元ベクトルの度合いの問題となるのだ。

この理論に決着をつけるには、ここに個人の価値観というものが加味されなければならないのだが、そんな普遍性の低い結論を導き出したところで、納得が得られようはずもない。人はかくも悩み続けるものである。


という話を後輩くんにこんこんと説いたら、

「いや、重要なのは見られたあとのその女性の反応なんじゃないですか?」

と、真理を語り始めたので、私はこいつを「本当は天才なんじゃないだろうか」と密かに思っている。