月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

説明責任は問題作成者にあるという話

資格の勉強をしていて思うのだが、「どちらかと言えば…」という解答が嫌いである。


とかく選択問題には、「絶対に合っている」「絶対に間違っている」という確固たる根拠が必要だと思うのだ。

だが、意外とこの「どちらかと言えば」こちらのほうが正解である、あるいは消去法でしか正解を導けない、そういった解答が世にあふれている。まだ消去法でしか正解を導けないものはいいとしても、確固として間違いではない解答二つを比べ、より確度の高い方を正解とするやり方は到底納得行くものではない。

こういった「ゆらぎ」を持つ解答というものは、時として「物言い」の対象となる。数々の大学、高校、それに準じるいわゆる進学受験において、問題公開をしても解答を公式に公開しないのはそういった「物言い」が出ないようにするためだとも言われる。

公式試験の最高峰、大学受験センター試験などは、流石に解答を公開しないわけには行かず、毎年のようにその解答に後から後から審議がついていくのが常である。特に現代文や社会系の科目に多い。

その対策として、センター試験というものは何重にも「根拠」が用意されており、一説には根拠から問題が作られているとまで言われている(まあ問題は本来そういうものなのであるが)。ダミーの選択肢一つとっても、必ず、明確に「違う」点が用意されており、それに基づく「根拠」が文科省準拠の教科書には必ず掲載されているのだ。それが不十分な場合、問題そのものが否定され、どういう解答をした人間でも点数となるように制度化されている。

そう、この根拠こそが問題である。

試験というからには、出題範囲が定められており、それは教科書だったり、教本だったり、新聞であったり、テキストだったりと様々だ。あるいは、「一般常識」とされる場合もあるかもしれない。

この出題範囲において、「一般に知られている」という部分が曲者であり、一般の定義など人によってまちまちダル。そんな状態でコレは一般常識です、などと根拠の説明を丸投げされても到底納得行くものではない。

ましてやそれが国家資格であればなおさらだ。

根拠となるものがとどういった刊行物に記載されていて、それはいつ発行され、「一般」に浸透するための時間が確保され、どういった手順を踏んでその浸透に担当団体が寄与していたのか。そこが明確化されない限りそれは通らないだろう。

と、長々と「ゆらぎのある問題」について述べてみた。


…だって自己採点で2点足りなかったんだもの。