松来未祐という声優の話
この話は長くなりそう…な上に、自分でもどうかと思う内容になりそうなので。
しれっと更新。さらっと流すことを推奨。
私が一番最初に松来さんに出会ったのは、遡ること13年前、高校生の時分である。当時ギャルゲーという沼にはまりかけていた自分が、沼に落ちるきっかけの一つとなった作品「D.C.P.S.」に、追加ヒロインの鷺澤頼子として出演されていたのが初めだった。
当時は、というより今もどちらかと言うと「声優」より「キャラクター」に目がいってしまう人間だ。もちろんそれは本来の姿であり、「キャラクターを演じることが仕事」である声優にとっては、そう誘導させてこそ声優であるとは誰の言葉だったか。とにかく、出会った当時は松来さんというよりも、猫耳メイドさん可愛いな…としか思っていなかった次第である。我ながらハマるツボが単純すぎて今思うと笑ってしまう。
だが、この作品で私のメイド好きが始まったのかもしれないと思うとやはり感慨深い。(当時は手当たり次第にゲームをやっていて、気が付いたらメイド好きになっていたのだが、振り返ってみれば、この作品が一番最初の「好きな」メイドさんだった)小動物オドオド系のドジメイドのはしりだったのも覚えている。
最近考えるのは、「そんなテンプレじゃ自分はなびかないぜ」って言う人って、そのテンプレにもうすでに誰かがいるからなんじゃないかなと思ったりする。そりゃまあ、属性なんて複合させればいくらでも作り出せるんだけど、その人がテンプレートと言うからにはまったく同じ属性の何かがすでにいる。そして今自分が目にしているものは、自分の中にいるものより見劣りしてしまうって、無意識に思っているんじゃないかなと思うのだ。分かりにくいかな。
要するに、人は誰しも自分の中の属性に対しての理想像をテンプレとして確立していて、それが塗り替わる事態に陥った時に、興奮し、目を輝かせ、魅力的だと語る、そういう生き物だという話である。
そういった意味で、私の中の小動物オドオド系ドジメイドという(随分ニッチな)属性におけるテンプレートは、鷺澤頼子になる。私と松来さんの関係は、そこが始点だったのだ。関係とは言っても一方的だし、大仰な言い方だと自分でも思う。
こんなことを書いていて恥ずかしい話なのだが、始まりはそこだったとしても、松来未祐という存在を認識したのは、随分と後のことである。2012年、アニメの「這いよれニャル子さん」にクー子役で出ていたので名前を覚えたのだ。なんとまあ9年間。ぽっかりと穴が開いている。
実は本当に穴が開いている訳ではなく、その間にもおとボクやひだまりスケッチなんかで出演していた作品に触れる期間があったのだが、先に書いたようにキャラクターに興味が行ってしまい、声優に興味が向かなかったため、名前を知ることが無かったのだ。
そこから3年、好きな声優として名前を覚えていたのだが、2015年10月、急逝。
その知らせを聞いた時、随分と動揺した。涙は出なかったのだが、自分でもびっくりするぐらい動揺したのだ。
公表された日は平日だったので、知らせを聞いてから仕事がすっぽぬけてたのをよく覚えている。何をしていたか覚えていないのを覚えているのも奇妙な話だとは思うが、帰ってからはよく覚えている。
パソコンの前で大泣きしたのだ。
この時初めて、松来未祐という声優が、鷺澤頼子というキャラを演じていたことを知って、とんでもない後悔と、自己嫌悪を覚えたことが記憶に焼き付いている。
自分という存在をつくり上げる上で、とても重要な手助けをしてくれていたというのに、そのお礼を言えなかったどころか、今になってそのことを知るなんて、遅すぎる。なんで知らなかったんだ、気付く機会はいくらでもあったろうに、と。
何もかもが遅すぎる。多くの急逝を惜しむ声の中、こんな情けない話があるか。私なんかが今更何を言えというのか、ぐるぐるぐるぐるとそんなことが頭の中でめぐり、気がついたら日付が変わるほどになっていた。
ボーっとする頭で、カップラーメンを作って食べたことを覚えている。こんな時でもやっぱり腹は減るんだなぁと小説のようなことを考えていた。
そのままふと、「D.C.P.S.」をやろうと思い立った。もう一度しっかりと知っておかなければならない、とPS2を引っ張りだして、電源を入れる。本体は生産終了前に買った最終型だしディスクもある。メモリーカードが心配だったが、ちゃんと認識してくれた。
そしてまた、ロード画面を開いて涙があふれた。
当時の自分が、そこにいたのだ。
日付が2013年になっている、几帳面に一日ごとに作られたセーブデータ。
そして、それが鷺澤ルートであることを示す、猫耳メイドのアイコン。
ああ、私は心底、好きだったんだなぁ、と、また泣いた。
そして最初から初めて、鷺澤ルートのシナリオで、また泣く。
今だからこそ思う、随分と声が硬いなぁ、でも面影はあるなぁ、と思って泣く。
泣いてばっかりだな、と心のなかで思う。
次の日が休みで、本当に良かった。こんな状態で、仕事なんぞ出来やしない。
…結局休みが明けても、目の腫れが引くことはなかったわけだが。
前置きが長くなった。ひとつ落ち着こう。
今日のこのタイミングで、松来さんの話を書くに至った理由が、大きく3つある。「9月11日に愛悼イベントが開催された」「9月10日にカープがリーグ優勝を決めた」「10月27日で一周忌を迎える前にこのもやもやしたものを形にしておきたい」の3つである。
9月11日。東京は科学技術館のサイエンスホールで、イベントが開催された。
私は諸々の諸事情で参加できなかった。先に書いた、今更自分のような人間が何を、という想いもあったのも事実だ。手紙はすくなし書きたかったけど、遠方からだし、手段が無かったから見送った。
正直な話、忘れようとした。それは功を奏し、いっとき頭の中から確かに消えてくれた。歳を取るとこういうところばっかり器用になってしまって参る。
だがその前日。9月10日。広島東洋カープが25年ぶりのリーグ優勝を決めた。当日市民球場の跡地で酒を昼からかっくらっていた私たちは、既に二日酔い気味だったにもかかわらず大騒ぎだ。四半世紀ぶりの優勝に、普段野球にそこまで興味を見せないような人たちも加わって盛り上がっていた。広島の街への経済効果は300億円、半額無料振る舞い酒のオンパレードであった。そりゃお祭り気分にもなる。
私は昼から飲んだ酒が回ってガンガンに体調不良だったので、少しだけその空気を味わってから電車に乗って帰ったのだが、みんなの様子が気になってツイッターを見ていた。
そしてそのつぶやきを見つけてしまう。
松来さんに届いてるかな
— ダンカン (@dankan21) 2016年9月10日
自分の中で、時が止まったように感じた。
そして、追いかけるように。
『ちなちな!黒田が広島に帰ってくるんですよっ!』
— 西村ちなみ@10/15.16音due. (@china_alfafa) 2016年9月10日
2年前の春先のコト。
プロ野球に疎くてキョトンとしていた私に『黒田が、広島を優勝させる為にメジャーリーグから戻って来くるんですっ!すごいですよっ』
みゆ、広島優勝したよ。おめでとう。
明日はみゆの愛悼イベント。
なんかすごいなぁ。
セリフのところで、確かに松来さんの声がした。
電車の中で、涙を堪えるのが必死だった。
私は、本当に、バカな人間だと思う。
自分で傷を深くして、誰にも見えないところで一人でうずくまるようにして傷をえぐって。そんな非生産的で、誰も幸せにならないようなことを続けて、何が楽しいのか。
カープの優勝で松来さんが笑顔になって、イベントでみんなが祝福して、それに混ざれない自分がそこにいて、また後悔で泣いた。
一体自分は何をしているのか。
しがらみなんてあってしかるべきだとは思う。イベントに行けないことを恥じるんじゃない。それを忘れようとして、なかったコトにしようとして、逃げた自分が惨めで、それを吐き出せなくてまた惨めで。
だから、11日はボーッと過ごしていた。
抜け殻のようにツイッターを見て、テレビを見て、過ごしていた。
でも、そんな中で。
「一緒にいた時間じゃなくって。どれだけ想っているかだよ! どれだけ笑ってあげるかでいいんだよ!」
ツイッターに流れてきたつぶやきの1つだったはずだ。
文面は覚えているのに、いざ探そうとすると見つからない。イベントに参加していた誰かの発言だと思うのだが。
まるでテンプレートのようなセリフで笑ってしまう。
小説やマンガやゲームで、腐るほど同じようなセリフを見た。くさいセリフではあると思う。
でも、その日の私には救いに見えた。
想いでも、時間でも他の人には敵わないけれど、末席に居る分には、いいんだと思った。
ここまでボロボロになっちゃって。胸を張って公言は出来ないけど。ステージに声援を送る面子の中に、三階席の一番後ろの端っこぐらいには、居てもいいんじゃないかと思えるようになった。
大事なのはその場に居ること。同じ方向を向いていること。よく考えれば、いつも想いを叫ぶのは基本的には一方通行で一方向だ。誰も横を向きはしないし、一対一で返事が返ってくることなんて滅多に無い。虚しいと言われても、「自分を含めた大勢」の声援が、その人を喜ばすことができるなら、それは喜ばしいことなんだろう。
ましてや、松来さんにはもう直接声が届くことはない。死後の世界を信じていないわけじゃないが、霊感が強いわけでもない。
何ができるわけではないのだが、できることがあるのなら、できる範囲でやっていこうと思う。
たったこれだけの決心をするのに、随分遠回りした気がする。
でもまぁ、わかっただけマシかな、と思うことにします。
なんとなく、「たまゆら」とかも見れないままだったんですが、今度時間を取って見てみようと思う。
今思い出したのだが、その昔。ZARDの坂井泉水さんが亡くなった時も、とんでもない無力感に襲われた。あの時は親も同じで、思えば中学生の自分を連れて東京まで哀悼しに行ったものだ。思えば、アレが「区切り」だったのかもしれない。いつだって先達は偉大だ。前を向いて胸を張って生きるすべを知っている。
そういった明確な意味での「区切り」を、できれば1周忌の10月27日に何とかしたいなぁと思う次第。
呉にでも、行きますかね。