月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

UNOに見るカードゲームのユーザビリティの話

UNOというゲームがある。パーティゲームの定番とも言え、もちろん一人では出来ない。

昔お一人様○○という一人で何かに挑戦する企画物に参加したことがある。参加者はお一人様焼き肉や、お一人様カラオケなど定番のものから、変わったところではお一人様桃鉄99年やお一人様お花見等哀愁を誘うものもあった。

私も笑いを取りに行くためにお一人様UNOを提案したのだが、原稿を作成した段階で「これは笑えない」「狂気を感じる」「闇が深すぎる」とのご意見をいただき、お蔵入りになってしまった。確かにそういう方向に感じられやすいように原稿制作したこともあるのだが。狂気を感じるとはなかなかなお言葉である。

しかし実際、いま見ても一人でUNOをしている写真はくるものがある。セルフタイマーで撮影、手札と山札を見比べて、どう出すのが正解かを見比べ、出せなくなったら山札を引く、の繰り返し。ドローフォーが手札にあれば、確実に4枚引かなければならない。なんという自傷行為だろう。やってる本人は詰将棋みたいに頭をつかうのだが、いざ写真を確認してみれば、確かに「何やってんだこいつ」感がとんでもない。つくづく、写真撮影を人に頼まなくてよかったと思う。

その時に、改めてUNOの説明書を読んだ。今までなんとなくUNOをやってきていたが、改めて説明書を読むと、新たな発見がある。

まず大きな違いは、UNOは一人が上がればそれでそのゲームが終了するという点である。各人は残った手札を確認し、手札に応じた点数が加算される。一定ゲームが終了した時に、点数が低い人間が勝つ、というゲームであると初めて知った。

これは実はとんでもないことで、私は生まれてこの方UNOは上がった人間から抜けていき、最後に残った人間が負けるものだと思っていた。思っていたし、そう教えられていた。周りの人間の誰もが正しい遊び方を理解していなかったのである。これは新しい知識を得た、自分の世界が広がったと大興奮、自分の庭に野生のバナナが生えていたような目からうろこ感であった。例えが分かりにくいのはいつものことである。

その他にも厳密には同じ種類のカードを二枚続けて出すことは出来ないとか、ドローツーをドローフォーで受け流せないだとか、色々発見はあったのだが、殊の外このゲームの勝利条件に関する発見の衝撃は大きく、喜び勇んで周囲の人間に教えたのだが。

「知ってる」
「知ってます」
「いや知ってるけど、カードゲームするのにいちいち点数書くの面倒くさいじゃん」
「むしろ知らなかったのか。説明書読めよ」

ぐうの音も出ない正論である。ゲームを始める時に説明書を読まない弊害がこんなところまで波及してきた。

世の中は、広い。