月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

感想文 「君の名は。」

この話題は少々ネタバレを含んでいるので、ご注意いただきたい。できれば、一度本編を見てからお読みいただきたい。

また、普段ネタに走ってばっかりで、オチが付くように話をまとめているのだが、今回に限ってはそういうの、ない。山はあるかもしれないが、オチはない。先に言っとく。

なお、今回は「感想文」である。文体が少々異なっており、その、随分アレな感じになっている。

それでもよければ、どうぞ。

 

 

結論から言うと、泣かなかった。

泣くべきシーン、昨日「私」がエントリーしていた「物語の核」についての話にもある。鳥肌が立つシーン、監督が見せたかったシーンというものは、確かにあった。

それは、主人公が記憶を辿って、山頂の社で酒を口にするシーン。

それは、カタワレ時に二人が時を越えた邂逅をするシーン。

それは、名前を忘れ、手に書かれた言葉を見て、泣きながら笑って立ち上がるシーン。

そして、ラストシーン。

ぱっと思いつくだけでも核だらけだ。それなのに、何故だろう。


泣かなかった理由や、泣けなかった理由をほじくり返そうと思えば、できないこともない。所詮映画館だ。家族連れもいれば、ぐずりだす子供もいる。休日の昼間に見た、という状況もあったのだろう。つまりは映画に入り込めなかった。前情報から期待しすぎていた。人の多さに辟易していた。だがそれは面白さのバロメーターだと思った。友達と一緒に見た。泣いている所は見せられないと思った。

我ながらよく口が回る。全く、思いつくことを喋り出したら天下一品である。

僕はこの文章を流れるように打ちながら苦笑する。「アンタ、口だけだね」。そうかもしれない。これだけ自分の内面の外面をよどみなく羅列できるならそう言われてもおかしくない。

本当はわかっている。違う。先に挙げた理由は理由であって原因ではない。僕の本質はそこには存在しない。映画を見て、泣けなかった事実に紐づく真実は、もっと別の場所にあるはずである。

確信があった。僕が気になっているのは、そんな箇所じゃない。そんな表面的な、一目見てわかるような、映画の本質に微塵も関係のない場所ではないのだと。

チラホラと人の話も聞いている。最高だった、すごく泣いた、感動した。と絶賛する一方で、どうも気持ちの整理がつかずにふわふわしている。何かわからないけど何かが足りない。もやもやして自分の中で整理がつかない。という感想もちらほら見受けられる。

そう、分からない。何かが欠けている。何かのバランスがおかしい。自分の中で映画の感想を噛み砕くことができないのだ。例えるならそう、コース料理の途中で、次に使うべきスプーンが見当たらない感覚。どこかで順番を間違えたのか、そもそもスプーンが置かれていないのかはわからない。それが配膳のミスなのか、それともオーナーの趣向なのかもわからない。だけど、このままじゃ目の前の料理が食べれない。

映画は繰り返し見ることができない。…主に時間の問題で。お金はまぁ、なんとかなる。が、映画の上映時間なんて決まっていて、僕には仕事があって、そしてクライアントは待ってくれない。因果なものだ。

だから探す。通勤の電車の中ででつり革につかまりながら。コンビニで今日の昼ごはんを探しながら。職場でパソコンの前に陣取り、提案書のレイアウトを考えながら。あるはずのスプーンがなくなっている理由を探す。

ぐるりぐるりと映画の記憶を回す。覚えている場面、シーン、セリフ、そして新海作品特有の風景描写の緻密さ。開け放たれる玄関の引き戸、閉じる電車のドア、見慣れた新幹線の内装、一心不乱に主人公が書いていたラフスケッチ。

意味深な要素としての1200年前の隕石落下、繭五郎の話、チョイ役でしか無い悪役同級生、父親との確執、意味深な超常現象マニア設定、ああ、気になるところを上げればきりがない。

場面を必死に手繰り寄せながら僕は考える。映画を深く印象付けるためにあえてスプーンを隠した? いや、それならばもっと明確に不足している実感があってもいいはずだ。スプーンがないのは事故なのか作為的なのか、そして誰のせいなのかもわからないなんてあやふやすぎる。

不意にその姿が重なる。

ちょうど主人公が組紐を手に失われたはずの記憶を遡っているところだ。先輩の女性に言われて、自分の持ち物のルーツを探り、物語の核心に手をかけるシーンだ。

そして僕も気づく。

…これか。

なるほど、やられた。

正直、この文章を書き始める段階では、終わりがどうなるかわからなかった。それでも書き始めたのは、見つからないスプーンがどうしても気になったから。書いているうちに何かしらの結論が得られるかもという淡い期待があったからだ。でなけりゃ、睡眠時間を削ってこんなゴリゴリキーボードを打ってない。終着点を決めずに物を書き始めるなんて、安全高度のないスカイダイビングみたいなもんだと笑う、どこに落ちるかどこにぶつかるか、そもそもパラシュートを開けるのかわからない。

 

ほら案の定、思いもよらない場所にぶつかった。


そう、これは、なかったコトにした、僕のせいだ。


何の事はない、テーブルの上のスプーンはたしかにそこにあったのだ。だが、僕が「このスプーンがない」と思い込むことによって、見えなくなっていただけのこと。それは、この料理の味がわからない。味がわからないのは、きっと料理を食べれていないからだ、そうだ、スプーンがないんだ。だから食べられないんだ。そう、思ってしまった。

そのスプーンは、忘れたことにしている、自分の過去だ。

あったことを忘れるということは、生きていくうえでとても重要な事だと思う。過去に囚われると、前に進めないことが多々あるからだ。

だが一方で、忘れてはならないこともある。忘れたくない、そう願っても、忘れてしまうことがある。映画の主人公とヒロインがまさにそれであろう。それは、先に書いた過去ではなく、前に進むために必要な過去であるはずだ。


僕に「足りない」のは、まさにそこだ。映画への没入感を阻害したのは、あろうことか共感だったのだ。


彼と彼女が、忘れたくないと願った過去。それは前に進むために必要な過去。過去の内容が重要なんじゃない、それが「実際にあったこと」と認める、ただそれだけの過去。そういったものが、誰しも存在すると思う。

でも、他人よりほんのちょっと歪だったり、不器用だったりする人は、認めるべき過去を忘れている。ケリを付けるべき過去を、忘れたふりをしている。僕のことだ。全く難儀なことで。

だから、前に進んだ二人と、自分の立ち位置が明確に映画の途中で別れてしまった。それどころか、その認めるべき過去が、ゆっくりと輪郭を帯び始めてしまったんだと思う。


とまぁ、なんともひねりのない結論に達してしまった。が、ちょっとすっきりしたのも事実だ。

もうちょっと…整理、をして、改めてもう一度見に行こうかと思う。

なんだかんだ言って、パンフレットも、原作小説も買ってしまった。とりあえずの僕の中での結論は出せたから、監督が、声優が、どういった思いでこの作品を作ったのか。その思いをこれから見てみようと思う。

的はずれな事を言っている可能性は高い。なにせほぼほぼ自分の内面の吐露だ。「何言ってんだこいつ」と思われることうけ合いであろう。


だけど多分、これは必要な過程。そして、もう一回映画を見た時にこそ、「ああ、楽しかった、最高の時間だった」と言えるんじゃないかと。

僕は、そう思うのです。