月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

「味玉100円が高い」という主張に対して反論する話

「味玉を抱きたい」


春になってもいないのに、また豊がトチ狂ったことを言い出したと思われている。仕方がない。卵ならまだ有機物であり、わずかながらも生命の可能性がある。だからと言って、「抱かれたい」は一般的に考えておかしいのだが、世の中には様々な性癖がある。一概に否定はできない。だが味玉はどうだ。調理された料理である。意味合い的には、ラーメンに溺れるとか、オムレツにくるまれたいみたいなニュアンスを含んでいる。なるほど。ちょっとわかりやすくなった。

まあ要するに味玉とは愛である。全然「要」していないので説明するのだが、味玉ってすごくないですか。なんですかあれ。無限の可能性を感じる。

生卵でもない、ゆで卵でもない。ゆで卵はゆで卵なのだろうが、なんというか、無垢な生卵から、酸いも甘いも知り尽くしたハードボイルドな固茹で卵になるまでの間、つまり人間に例えるならば、感受性豊かな青少年期、小学生から高校生ぐらいの多感な時期に相当する。それが半熟卵なのである。

茹で時間によって成長度合いが変わるところなど、まさに人間の成長過程である。ちなみに味玉には、一般的に女子高生ぐらいが良いとされている。この意見には私も賛成である。

この時期というのは非常に難しい。世の中の多くの親御さんが苦労しているように、多感であるがゆえの好奇心に対し、正しく育ってほしいがゆえの父の愛、そしてそれを見守りながらも理解を示す母の愛、あるいはそれに変わる「何か」。正解などない中で、本人も、そして親も、試行錯誤しながらより良いと思った選択を繰り返しながら、成長していくのだ。

そもそも、卵そのものをとっても千差万別、一つ一つ同じものなどありはしない。からの割れやすさ、黄身の大きさ何もかもが違うスタートで、何もかもが違う成長。そう、一人として同じ人間などいないように、卵たちも一つとして同じ存在などいないのだ。

そうやって茹で上がった卵達。成長を見守り、これぞ食べごろだと思う成長度合いで火を止めた後も、油断は禁物である。

殻割りに失敗してしまえば、その肌を傷つけてしまう。年頃の女性の肌を傷つけるなど、言語道断である。取扱には最新の注意が求められる。

昨今では、まだ無垢な赤ちゃんの時分に、殻に穴を開けてしまう、つまり貫通させることによって、その殻剥きを確実なものとする事ができる器具も販売されている。こういったものを利用するのも一つの手である。卵達の健やかな成長のためならば、必要な出費だ。100円だし。

殻をむき終えた卵、半熟卵であるが、それはもう美しい。シミひとつない肌、水をかければその水を弾き、吸い付くようであり、弾力も適度に柔らかく、誰もが羨むような肌だ。冷静に考えればそれはそうなんだが。卵肌という言葉もあるし。

無垢から成長し、清純。純粋。そんな言葉が似合うようになった彼女たち。そのまま食べてしまいたくなるのを我慢して、次に進む。

そう、半熟卵から味玉への成長、変化。調味液に一晩つけ置くのである。

白い肌が小麦色に変化、言うならば深窓の令嬢から、活動的な部活少女へのクラスチェンジである。このあたり、どちらがいいかについての議論は、もう電車のレールがごとく平行線をたどるのでここでは割愛する。どっちもいいじゃない。部活少女ではなく、ギャルという説もあるが、その説も大いに支持したい。良さ。

このように、様々な困難を乗り越えて、味玉は完成するのである。そこにあるのは紛れもなく作り手の愛であり、この愛を理解するためには、覚悟を持って自ら味玉作りに望まなければならない。ラーメンのトッピングで100円で追加できる味玉ではあるが、その裏に隠された成長を知れば、決して高くない、いや、その成長過程を思えば、安いぐらいだと思うのだ。

艶めく味玉を箸で割りながら、私は味玉を想う。


美味い。

 

本日は通勤途中に2回滑った話

今年の冬は寒いらしい。


もう1月も終わり、2月に入ろうかというこの時期に一体何を今更のたまっているのかと訝しげな視線を向けられる諸兄、貴方は正しい。私とて今更何を言っているんだと自分でも思う。

暑さに弱いからと言って寒さに強いわけではない。そんなことは自明の理である。暑いのが好き、寒いのが好き、と言うのは個人の嗜好の範囲であり、それ自体に是非を唱えるつもりは毛頭ない。北海道で寒中水泳だろうが、沖縄で火鍋を食おうがそれは個人の自由である。だが私は思うのだ。人間の体は、極度の温度変化に耐えれるようにできてはいないと。

「暑ければ暑いほどいいんだよ。そんだけ暑い中で中本の北極ラーメン食って盛大に汗をかく。究極のストレス解消法じゃないか!」
「寒いだけじゃないんだよ。寒いと空気が澄んで、遠くの星もきれいに見えるんだから!」

わかった。わかったから落ち着くが良い。

そも、一昔前の我慢大会のような企画が無くなったのはなぜなのかと一言。空気が澄む、という感覚はわかる。だが、遠くの星が見たいのならば、街頭や明かりの少ない山奥に行くほうが確実ではないのかと二言。いや、否定したいわけではない。快感もロマンも存じてはいる。

「「だからお前も一緒にやろうぜ!!!」」

存じてはいるが断る。


ようやく話を戻すと、ここ近年暖冬と呼ばれていたのだろうが、今年の冬は例年に比べて寒い。「去年こたつ出したけど殆ど使わなかったし、こたつ出すと掃除するのが面倒くさいから今年は着る毛布だけで過ごすか」と12月の頭に考えていたのだが、そんな考えを木っ端微塵に打ち砕かれたのは記憶に新しい。油断してたら風邪を引いた。インフルエンザじゃなかったが、久しぶりにしんどい風邪を引いてしまった。

年が明け新年になり、その寒さは増す一方である。都心は雪で交通が麻痺し、広島も中心街はそうでもないが、私が住むような片田舎は毎日のように雪が降る。幸い、出勤困難になるようなレベルで雪が積もるようなことはないのだが、いやらしく路面凍結するレベルには降ってくださる。おかげで毎日通勤が面倒で、さらに言えば布団から出たくない。

夏の寝苦しい夜と、冬の起きづらい朝。どっちがマシかと言われれば、冬のほうがマシではあるものの。

百花魁、梅の花が開くような春は、まだまだ遠いように感じる。

人と違ったものを持っているということは決して羨ましいことではないという話

リコーダーという楽器がある。


昨今の小学校事情はよく知らないのだが、少なくとも私が小学校の時分は、音楽の授業で扱う楽器はリコーダーだったため、児童全員がもれなくリコーダーを持っていた。

こういった、「授業に使う道具」シリーズの最大の問題は、それがないと授業に参加できず、45分間もの間立ち尽くすことしかできなくなる点だ。体操服然り水着然り、絵の具然り書道道具然り。忘れ物を防止する「明日の準備」という言葉を学ぶこと、それが小学校における大きな役割の一つであることは想像に難くない。

しかし、人間は考え、進化し、そして裕福になると蓄えを作る生き物である。小学校も中学年ぐらいになるとこう考える輩が出てくる。いくら明日の準備をしたとしても、その時点で忘れていたら意味がない。そもそも、先生が言う「明日持って来い」を聞き逃す可能性だってあるではないか。そのリスクを最小限に留めるには、一体どうするべきだろうか。

答えは簡単である。学校に置いておけばいいのだ。

小学生の知恵ながら、真理をついてはいる。学校側に保管のスペースが確保できるならば、使う→その日のうちに洗濯なり洗うなりする→翌日持ってくるの工程を踏むことで、忘れ物という致命的なエラーを回避することができる。

ただまあ、このあたりが小学生の限界とも言えるべき部分で、使う→洗濯や洗浄の部分で早くも挫折する。要するに使った後、筆を洗うのが面倒なのである。冷静に考えると、使った後洗うという行為は至極まっとうで普通の行為なのだが、自分の考えついた方法に酔いしれている小学生は、そこから「とりあえず学校にあれば忘れたことにならない」と論理を飛躍させ、結果的に洗っていない道具たちが学校に放置されるという事態を招くのだ。

大人になった今であれば、「洗ってなければ使えないから忘れるのと大差ないのでは」と思うのだが、小学生にしてみれば、「持ってきてない(=忘れる)ために先生に叱られる」を回避できるだけでいいのである。結局授業に参加できないので怒られる上に本人のマイナスにしかならないのであるが。

話がそれた。要するに小学校の道具というのは、基本的に使ったら持って帰り、また授業で使う際に持ってくるものだという話だ。

だが、この括りに当てはまらない道具が存在する。そう、冒頭のリコーダーである。

私個人の話で言えば、リコーダーという存在が壊滅的に苦手で、友人たちが「宇宙戦艦ヤマト」や「チャルメラ」の音楽を得意げに演奏している中で、ひたすら「カエルの歌」を演奏しているという今思い出しても頭が痛くなる思い出があるのですが、それはそれとして、このリコーダー、使っても別に持って帰る必要がない。

たまにある音楽のテストでリコーダーを演奏しなければならないという全く合格できる気がしないテスト前に家に持って帰って練習するとき以外は、基本的に学校に置きっぱなしである。ちなみに私は持って帰ってリコーダーを練習していたら、親から「夜に笛を吹くと蛇が出るから止めなさい」とお叱りを受け、家での練習が禁止された。上手くなるわけがない。八方塞がりである。

私個人としては、あまりいい思い出がないリコーダーではあるが、女の子のリコーダーを云々という話はよく聞く。リコーダーは構造上三分割することができるため、一番上の、要するに口をつけて吹く部分を自分のものと取り替えてしまうという大変悪質ないたずらと言うよりは、凸レンズもびっくりな屈折率を誇る歪んだ性欲の対象にされてしまったという話だ。

小学校では全員同じリコーダーを購入するので、何か目印でもない限り、わからないのだ。

聞いた話では、クラスの一番人気の女の子のリコーダーを狙って、クラス中の男子がそのイタズラを決行、が、もちろん本物は一本だけであり、結果としてクラス中の男子が男同士で間接キス大会。地獄絵図と化したこともあるらしい。

うちの小学校では、リコーダーの中にラブレターを入れて告白すると絶対に叶うなどという、どの部分の頭のネジが弾け飛んだらそういう発想が出てくるかわからない与太話がクラスを圧巻したこともあり、このリコーダー問題は大なり小なり小学校で問題になることが多いという話。

まぁ。

私の場合、小学校を二回転校したこともあり。

みんながわーきゃー言っている最中で、一人デザインの違うリコーダーを手にカエルの歌を演奏していたのですが。


…別に寂しくないもの。

年越しの瞬間は、必死にコントローラーを振っていた話

年が明けた。


現在は2018年であり、平成30年であり、1月4日であり、お正月気分も抜け切らない時分で、みんなどことなく目の焦点があってない感じでパソコンとにらめっこをしている平日の昼下がりである。

「お疲れ様です」が「新年あけましておめでとうございます、今年もよろしくおねがいいたします」に変わるぐらいで、正月飾りも鏡餅もない我が職場は、至極平常運転で、6連休が明けただけで、何かが変わることはない。しいて言えば、先の挨拶が長くなって若干リズムが狂うぐらいだろうか。まあそれについても明日金曜日に出社すればまた土日、しかも成人の日も加えて3連休、明けて火曜日には「あけおめ」とすら言わなくなるのだろう。

心機一転、一年の計は元旦にありとは言うものの。豊さんの元旦は年越し後、午前2時にやってきた友人と共に朝までアイドルの女の子たちがキャンプをする映像を肴に酒を飲み、若干の仮眠を取り、3時間ほど仕事をして、帰宅後はひたすらエロゲに興じるという、計画もへったくれもあったもんじゃない年明けであった。しかも歳が歳だから初夢を見ることもなく、次の日昼過ぎまで爆睡、見事に寝正月と相成った次第である。

しかもその後友人たちと深夜(明け方)まで麻雀をしたため、年賀状の確認をしたのはまさかの1月3日。届いた年賀状にもれなく「うわこの人年賀状出してないよ!」とツッコミを入れ、コンビニに年賀状を買いに走る始末。去年の自分は「まぁ年明けに来た人にだけ年賀状返せばいいじゃんどうせ暇だし」と言い、今年の自分は「なんであらかじめ用意しとかねぇんだよ、せめて年賀状を確保しとくぐらいはやれよ」と文句を言い合う。年明けから全く生産性がない。

そんな正月休みもあっという間に終了し、晴れて本日から仕事です。さっき言いましたね。

初詣も、無病息災、笑って過ごせますようにとお祈りいたしました。思えば、ガチャ運を上げてくれとお祈りすればよかったなぁと思いましたが後の祭り、別のご利益のある神社でお祈りするとします。

今年もいい年になりますように。

 

 

追伸)
年末年始にやったゲームに感銘をうけたため、ブログ名称を一新しました。

どうもハコメガネです。

引き出物の皿が重いという話

結婚式ラッシュが一段落した。


男は大体28~30にかけて、女は20代中盤にかけて、まあ俗にいう結婚式ラッシュというものが来る。

年齢的なものは世代によっては多少前後するだろうし、自分の前の職場の豪気なやつは「20でデキ婚よ、ガハハ」とかのたまってたし、このご時世に子どもたくさん産んで育ててくれていて、独身の身としては「おーがんばってるなー」と至極まっとうな感想を抱いていた。何事にも例外はあるものである。

自分もあまり社会的な人付き合いをしているとも思わないのだが、何の因果か結婚式に呼ばれることがよくありまして、ご多分に漏れずご祝儀貧乏、引き出物をもらうたびに一人暮らしの家の食器が増えていく。カタログギフトはもはやもらうものがなく、重たい皿は翌日帰る段になって厄介者へと姿を変える。もはや最近は礼服も引き出物もごっちゃにしてコンビニから宅配便で送るという開き直りを呈しており、割れ物が割れればそれはそこまでの運命…などとニヒルに笑ってみるものの、未だ割れた試しはない。日本の宅配業者はかくも優秀である。

引き出物。あんまりこの言葉を聞いて「うわこれ欲しかったんだよやったー!」とならないのは世の常人の常であろう。参加者の最大公約数は、最大公約数でしかない。一人ひとりに合わせるなどということはできようはずもないのだ。

まあ、この考え自体がおかしいことなのは自明の理だ。引き出物の主体はもらう側にあらず。差し出す側の「気持ち」であるが故に。だがややこしいのはそこに日本人的OMOTENASHIの心がぬるりと入ってきてしまう点と、受け取る側にOMOTENASHIされる心があぐらを組んで鎮座している点である。

祝いの席だから、そういったビジネスライクな生々しいところは暗黙の了解で、そこはかとない空気を読んだ結果が微妙な引き出物になるのであろう。みんなそんなもんだという魔法の共有意識がその根底には流れている。

その点、先に上げたカタログギフトなんて言うのは貰いたいものもらいなさいよと商品選択を相手に丸投げしている点で、個人的には好きである。飯を食わない人間はおらず、料理ができない人間はいても湯を沸かせない人間はいないだろう。カタログギフトで即席味噌汁を頼めばよい。

問題はその頼む手間と持ち帰るカタログの重さぐらいではあるが、重さについては重い皿を持って帰るのとそう代わりはあるまい。

うむやはり無難なのではないだろうかカタログギフト。


まあ。自分は何ももらわないのが一番助かるのであるが。お祝いの返礼、プライスレス。

 怒らないから。豊さんだけ披露宴の会場に手提げ袋がなくても怒らないから!