月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

できるビジネスパーソン

出来るビジネスパーソンは、時間を無駄にしない。


生きとし生けるものに関して、時間は平等であり、人のなせることには限界がある以上、時間効率においては限界があり、それをあげることこそが生産性をあげることに直結し、つまりは出来るビジネスパーソンとして定義できるとそういうわけだ。なるほどわかりやすい。

そう考えると、出来るビジネスパーソンの思考と、日々をスマホソーシャルゲームに捧げる豊さんの思考は同じ源流を元にしていることが一目瞭然、これはもう豊さんができるビジネスパーソンとして定義されてもおかしくないのではないのかと思う次第なのです。

朝起きてまずスマホをいじり、夜寝ている間のスタミナ回復分を消化。次にスマホをいじれるのは出勤中の電車内なのでそこまでの時間を逆算して1ポイントも無駄にすること無くスタミナ消費を行う。出勤中の電車内や仕事中の休憩時間まで気を配り、徹底的にムダを排除。スマホの充電切れというリスク回避も怠らない。

トラブルが起きても決して焦らず、一旦トイレに立つ。作業効率よりも経過時間効率を重視してプレイ。見通しが不透明ならば、常にリスクを考え、最善の手を選択する。

日常内の「スキマ時間」を完璧に使いこなしている。なんなら時間経過だけではない。ゲーム内の作業効率の計算も怠らない。トライアンドエラーでパターンを割り出し、目的までの道筋を逆算していく。

上記の文章内でゲームを例えば資格の勉強に置き換えてもいいだろう。時間経過で回復するスタミナの概念は、勉強における集中力に置き換えられる。こう考えるととんでもないポテンシャルである。自分が自分で怖い。

でも時たま思うのだ。そんなにせわしなく生きて、お前は一体何を成すつもりなのか。

過程そのものを楽しめない行為を、人は苦痛と呼ぶとは誰の言葉だったか。パターンに入りルーチン化し、作業に成り果てるそれは、学業だろうとゲームだろうと苦痛となりえてしまう。

もちろん、世の中には作業を「安心する」とか、「気持ちいい」と感じる人間がいるのも事実だ。と言うより、私がそのタイプの人間だ。スリルやハイリターンが嫌いなわけではない。が、頭を空にして行う作業に大きな魅力を感じるのだ。それがたとえ大きな成果を産まないとしても、確実に形や糧になるのであれば、それは大きな報酬である。

停滞を受け入れる事のできる人間こそが、真のできるビジネスパーソンなのかもしれない。

金縛りとポルターガイスト

金縛りにあったことがない。


いや、「俺今日金縛りにあったんだ! 羨ましいだろう!」という言葉がおかしいのは重々承知している。自慢したがりの小学生でももう少しマシな謳い文句を思いつくだろう。世間一般の常識で金縛りというものはあまり良くないイメージがあり、できれば避けたいと思っているものだろう。

そもそも私は、つい最近までこの金縛りというものを都市伝説のたぐいだと思っていた。夢を見ているだけだろうとか、そもそもそういった現象は言われているだけで確立されていないと思っていたのだ。

それが先日ふと飲んでいる最中に怪談話になった時に判明した。

「え? 金縛りなったことあるの?」
「わりとなるよ。1年に1回くらいかなぁ…」

衝撃である。トナカイは鹿の進化系でドラゴンやペガサスと同じ列で語られるものだと思っていたのに、普通に「いやいるよ。北欧とかに生息してるよ。サンタも乗ってんじゃん」と事も無げに言われたときと同じ類の衝撃を受けた。いやしかし、トナカイの存在証明に「サンタも乗ってんじゃん」と言われるのは未だに納得がいかないのだがどうだろう。

しかも聞いてみれば、結構な人数が金縛りにあったことがあるという。周りの人間に聞けば6人中5人が金縛りにあったことがあるという。ちなみに最後の1人は金縛りの意味を知らなかった。それはそれで衝撃である。

規格外の世間知らずを除けば100%である。何だこの数字は。疎外感すら覚える。なんで今の今まで黙ってたんだと詰め寄る私に「いやだってそんなの自分から言わないでしょ。珍しいことは珍しいけどほぼ恐怖体験だし」なるほど。確かにそのとおりだ。

好奇心に殺されるネコと化した私は、「怖いんだったら言わなくていいから」という前置きの元、金縛りについて聞いてみた。「いや別に怖いわけじゃないし」とムキになるのを見越しての所作である。何という頭脳プレー。

そして集まった情報は以下のとおりである。

・疲れてる時になりやすい気がする。
・怖いから金縛りにあったと分かったら目は開けない。
・思考能力と聴覚が研ぎ澄まされていくのを感じて、それが恐怖を煽る。
・なりやすい人は慣れる。
・金縛りが解ける瞬間は記憶にない。多分意識が飛ぶんだと思う。
・怖いのは怖いが特に実害はない。

まあ、私の知ってる情報と差異はない。

しかしやはりというか、何人かに話を聞いた感じでは、やはりなりやすい人となりにくい人がいるとのこと。睡眠が関係しているならば、不眠症気味の私がならないのもなんとなくわからないでもない。

世の中にはまだまだ知らないことがある。

「いつか俺も金縛りになる日が来るのかな…」
「なんでちょっとなってみたい風なんだよ」
「そんなこと言ったって気になるじゃんか。ポルターガイストとどう違うのかとか」
「は? お前ポルターガイスト体験したことあるの?」
「うん。誰も居ないのにマウスをクリックする音が聞こえたり、寝てる枕元で枕を叩かれて起こされたり。…え、何、引くなよ」

どうも世間一般では、ポルターガイストのほうが珍しいらしいです。

納得行かない。

 

あけてました

メールで、いつまで「あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします」と言い続けなければならないのだろうか。

止め時がわからないのだ。大体はこの三連休が明けるころには、松の内を迎え鏡開きが見えてくる。流石に鏡開きの時分となってはあけましておめでとうもないだろう。年賀状も寒中見舞いとなり、特番たちも消え、なんとなく新年のお祝いムードもお開きとなり、世間は2月3日と14日に向かって行進を始める。3日はともかく14日は早いんじゃないかと思うのだが、曰く「練習する時間がいるんだよいいからそんなこと気にせずに仕事しろ」と怒られた。

とにかく、個人的には成人の日を過ぎる頃から、なんとなくあけましておめでとうございますからフェードアウトしていくのがいいのだと思うのだが、「お世話になっております。豊です」から始まるメールに「あけましておめでとうございます、本年もどうぞよろしくお願い申し上げます」などと書かれている日には、こちら側が新年を軽んじているのではないか。遠回しに「今年はよろしくしないから」と言っているような感じの悪い取引先になっていないだろうかと頭を抱えるハメになるのだ。

日に10通も20通もメールを送る仕事ならもうそんなことは考えずに機械的に処理しているのかもしれない。若しくは、「あけおめは○日まで」というようなルールが敷かれているのかもしれない。できればそういった明確なルールがほしい。こちとらTODOリストを作って仕事をしていったら「○○についてメールする」の項目がわりと後の方に残ってしまうのだ。ちなみに最後まで残るのは「電話する」項目だったりする。

もうメールの文面を考えるのは疲れたのだ。敬語の使い方にわかりやすいメールに、もう頭がこんがらがりそうなのである。だいたい、1000文字も2000文字もメール送っているわけではないのだから、言いたいことぐらい分かれよ、と思う。昨今の「新入社員はビジネスメールもかけない」とお嘆きの諸兄に言いたいのは、「あなた方の読解力の低下も相当のものですよ」の一言だ。新入社員の指導をしていても思う。書けないのも問題だが、読めないのも問題だ。

メールはメールなんだから、用件だけのぶっきらぼうでいいように思う。礼節を尽くすのはお手紙とかでいいじゃないか。メール一本打つのに何時間もかかっていてはそれこそ生産性の低下だ。やることもやれることももっとあるだろう。

「例えば?」
「このブログの更新だよ!」
「黙って仕事しろ」


怒られました。

 

あっ、みなさん、あけましておめでとうございます(言い忘れてた

はがす

背中の方で、肩を回して手が組めますか? ほら、こうやって。


と言われ、「そんなもん楽勝だ」と思ってやったら意外にキツくて、しばらくショックだった。

いや、言い訳をさせてもらえるならば、昔はできていたのだ。肩周りの筋肉が硬いだの何だの、これができるとすごいですよ、おぉーって。一昔前に流行った時には出来ていた。

割りと関節は柔らかい方で、前屈だってブリッジだって、手の親指を手首につけるのだってできる。あ、でも股関節が硬いから股割りは出来ない。現役時代どんなに頑張っても、毎日酢を飲んでも、こればっかりはダメだった。

話がずれたけど、要するに昔はできてたということだ。就職してデスクワークに変わって、ともすれば1日10時間以上おんなじ姿勢でパソコン打ってるんだもの。そりゃ肩もこるし筋肉も劣化する。月一で整体に行くのが常にもなる。

んで、「豊さん筋肉硬いですねーははは。そういう時は『肩甲骨はがし』ってすればいいですよ」と言って教えてもらったのが、これまたよく見る肘を頭の後ろに持ってってもう片方の手で引っ張るポーズ。よく中学や高校の部活でやるストレッチである。

「これ肩の筋肉を伸ばすやつだよね。知ってる知ってる」
「いや、形はそうなんですけど、力入れるところが違うんですよ」

曰く、その名の通り、肩甲骨を肩から浮かせるようなイメージ、肩の筋肉から剥がして肩甲骨と体の間に隙間を作るような感じで伸ばすといいらしい。

意識する箇所を変えるだけで驚くほど効果が違うとのことだが、確かにそんな気もする。

剥がしていこう。積極的に。

大晦日にて

あっという間に大晦日。あっという間に2016年が終わろうとしている。

年をとると月日の流れが早く感じるとはよく言ったもので、その言葉には諸手を挙げて賛成する。思うに、新鮮な驚きが少なく、日々を「繰り返す」ことが加速感を煽っているのだろうと思う。

勘違いしてほしくないのだが、それが悪いことだとは思わない。と言うより、月日が早く流れることを悪だと思ったことはない。と言うよりその問題は善悪では計れまい。尺度がそもそも違う。

ともかく。とりあえず今年も。無事に2016年を終えることができた。正確にはまだ後6時間ほどあるが、まあ大きな問題は起こるまい。

振り返ってみれば、挑戦に挑戦を重ねて、まぁ案の定後に残るものは話のネタにすらならない程度の籾殻なわけだが、それもまた私らしいと言えば私らしい。

来年もまた、身の程を知らずに大きくジャンプして着地に失敗してコケるのだろう。もしかしたら骨折とかするかもしれない。積極的にはゴメンだが、結果としてなるならまあ仕方がないか。

仕方ない。飛んだ先の景色を見てしまったら、人はもう一度飛んでみたくなるものだ。

need to know.などとキザにカッコつける姿に憧れないでもないが。

ダメだ。「バカになること」と知ってしまった人間は、もう戻れやしない。

バカは死なななきゃ治らないって、そういうことなんだろう。

 

良い年を。