月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

寒いからお外でたくない話

この休日はずっと「アマツツミ」をやっておった。


パープルソフトウェアと言えば、なかなかに老舗、それでいてコンスタントに新作を発表している、斜陽と言われるこの業界の中でもなかなかに存在感のあるソフトハウスである。個人の感想だ。

世間では冬一色でクリスマスだなんだと騒いでいるというのに、夏真っ盛りのゲームをやっていた。ゲームの世界の話だから、季節感なんてあってないようなもんだが。

人間に憧れた神の末裔の話、ありふれているといえばありふれているのだが。休日を潰してやってしまうのは、やはりそこに何かしら惹きつけるものがあるのだろう。

未だクリアには至ってないのだが、ここ最近のパープルソフトウェアの特徴として、伏線の張り方と回収の仕方がとても印象的であるというのが挙げられる。


通常、私のような暇人でもない限り、一晩でゲームをクリアしてしまうということはない。こういった恋愛アドベンチャーであれば、1日に1人、2人ぐらいづつ攻略していくのが常であろう。そうすると、どうしても「物語を反芻する」という行為が生まれる。

人間の忘却力(そんな言葉はないのだろうが)はすごいものがあり、それがたとえ1日空いただけでも、適度に「忘れる」のだ。そしてそれを「思い出す」ことで、記憶の定着を図る。これが「記憶する」メソッドだと言う説がある。私もこの意見には絶対的に賛成だ。

それを踏まえた上で見ると、このゲームは実にうまく伏線を「忘れ」させ、新鮮な驚きに変えているように思う。それを可能にしているのは、物語の流れが拡散分岐になっておらず、枝状分岐になっている点だ。

よくある共通ルートと個別ルートが時系列的に見てはっきりと別れている拡散分岐ではなく、共通ルートは大筋でありながら、そこから枝状に個別ルートが展開していくものを枝状分岐と呼ぶ。古くは「向日葵の国、車輪の少女」で使われた手法である。

この2つの最大の違いは、前提となる知識が共通化し辛い点だ。

要するに。「この時この登場人物はこの事実についてどこまで知っているのか」。読者と登場人物の間の知識に差異が産まれやすい点である。これは拡散分岐にも当てはまることであるが、枝状分岐はそれがより鮮明になる。特にそれが顕著になるのが、一人のルートをクリアした後、次の話を読み進める時に気がつくのだ。

「自分は、どこまでこの話を知っているんだっけ?」と。

その分岐方法を用いながら、伏線を繰り返し見せることで物語にマクロな強弱をつけている。しかもそれを、シリアスと日常のパートでの強弱、要するにミクロな強弱と錯覚させている。シナリオという枠だけにとらわれず、アドベンチャーゲームというゲームの枠までをも勘定に入れている。

ともすれば凝りすぎたがゆえに話が冗長になり、敬遠されてしまう危険もあるのだろうが、ピッタリハマればなかなか不思議な読了感を得ることができる。少なくとも私は、「面白い」と感じている。

久しく感じていなかった、「読み進めるのがもったいない」と感じることができるかどうか。ちょっと期待である。


…まぁ、小難しいことをこねくり回してはみたが、世にいう名作の条件はシンプルでとてもわかり易い。

「もう一度やりたくなるか、どうか」である。

 

「辛いものが好きな人はMだ」って先輩が言ってた

辛ラーメン」である。


長い間、私はこれを「からーめん」と読んでいた。読んでいただけでは飽き足らず、普通にそう人前で発言していた。恥ずかしいことこの上ない。終いには「かららーめん」と素直に読んだ上に、「ら」が重なるとかっこ悪いと感じて勝手に「ら」を一つ省略している。だってそうだろう。辛いんだろうこのラーメン。赤いし。我ながら驚くほど単純な理由で辛さを認識していた。

からいラーメンなんだから、「かららーめん」。「ら」が二つ続いちゃってるから「からーめん」と読んでいたのだ。明らかに名付けのスキルがない。ポケモンにニックネームを付けることが出来ない人種である。

初めて見たのは、おそらく海外旅行に行った知人のお土産だったと記憶している。中国かどっかに旅行に行って、ラーメンは好きだけど辛いものが苦手な私のお土産に辛ラーメンを買ってきてくれた。文字通り半分行為で半分嫌がらせである。いい友達を持ったものだ。

おみやげで貰ったものを捨てるわけにも行かず、さりとて明らかに辛いであろうものを好んで食べるわけでもなく、家の戸棚に仕舞っていたら、いつの間にか妹が食べていた。この時ばかりは妹に感謝した。遠い過去の話である。

それから何年か。日常生活で「基本的に自分の人生には関係のないモノ」として認識しており、無意識に視界に収めることをしていなかったのだろう。というのも、つい先日コンビニで新作のカップラーメンを何気なく眺めていたら、ひっそりと棚の端に陳列されていたのを見つけた。

これが私にはなかなかな衝撃であり、新商品でもない、それこそそれなりの歴史があるカップラーメンがコンビニの棚に並んでいる、というのは、極めて珍しいことだと思う。それこそ、新商品が週ごとに発表されるようなコンビニの売り場で、一体どれだけの商品が恒常的に売れるかを考えた時に、その偉業が分かる。世の中はそんなにも辛いものに飢えているのか。

辛いものが苦手な立場からすると正直良くわからないのだが、市場というものは正直である。名前がいつまでたっても覚えられない顔の薄いラーメン評論家や、食べログのレビューなんかより、よほど信用できる。それも繁盛している=世の中の機微に敏感なコンビニが置いているというのは、それなりの根拠、つまりは万人に受け入れられる美味しさがあるのだろう。これは認識を改めねばなるまい。

深夜のコンビニでお得意の理路整然チックなツッコミどころ満載の理論を披露し、私は辛ラーメンを買って帰ったのだ。


次の日。

「で、どうやったん?」
「……辛かった」
「辛味の中に美味しさがあった?」
「ねぇよ。辛いだけだよ」


というわけで、私の中で、辛ラーメンがコンビニに置いてある理由は「オーナーの趣味」ということになりましたので、以後徹底をお願い致します。

 

「た、食べてみる…?」としか言えませんでした

あるイベントで「ペットと一緒に食べられる食事」というものを知った。そのイベントで取り上げられていたのは犬用のビーフジャーキーだったが、調べてみれば色々とあるようだ。


考えてみれば、別に普通のペットフードを食べたところで死にはしないだろう。原材料に人間が食べられないものがはいっていない以上、味はともかくとしてそれを口にすることで死に至るわけはないのだ。

…言い過ぎた。世の中にはメシマズという概念があり、食用可能な物質から食用不可能なマテリアルを産み出す存在が居る。確かに存在する。人類の叡智である炎を操り、料理に化学式を応用し、電子レンジを時限爆弾にするその能力は、今思い出しても身震いする。炭化した肉を「タンパク質と酸素を化合させただけで毒になるわけ無いでしょ」と言い放ったその姿は、今でも目蓋に焼き付いている。

だが、市販されているそれにおいて、まさかそんなミラクルは起きていないだろう。その実、真空パックされたささみ肉などは普通に美味しそうであるし、賞味期限内であれば食用することに問題はない。「ペットと一緒に食べられる」といううたい文句がわざわざある以上、通常のペットフードを食べるのはあまりおすすめされないのだろうが、その昔ひもじすぎて猫缶をつまんだ時は、普通に美味しかった。人間としての尊厳は飢えの前には無力であった。

そう、「ペットと一緒に食べられる」ものならば、人間の尊厳を損なわずして、ペットフードを食用することができる。なかなかな発明であると言えよう。

焼肉に、フレンチに、果てはスイーツまでも完備しているこのペットフード業界には、若干の人間のエゴを感じないでもないが、目で見て楽しく、ペットとともに楽しい時間を過ごせるのであればそれが一番だろう。

ここまで書いて、「こりゃ実際に食べてみないといけないな」と思い、コンビニに走り、「ワンちゃんまっしぐら」と書かれたササミジャーキーを食べた所、普通に美味しかったことを記しておく。

そして、ついでに、その姿を後輩の女子社員に見られてドン引きされたことを追記しておく。

 

いつだって評価の基準は他人である

さむい。


いやまぁ気がついたらすでに11月だし、寒くないわけがないんだが、どうにも「春」と「秋」については、油断しているフシがある。どちらも「冬」と「夏」の延長線上で過ごせてしまうからなのだろう。それで、「夏」から「秋」へ、引き返せないくらい寒くなって初めて「あ、これ冬だわ」となるのである。おまけに風邪をひく。

偉大なる先達は、「いや軽く風邪引いとかないと休むに休めないから、季節の変わり目に体調を崩すのは必要悪なんだよ」とトチ狂ったことを言っていたが、あながち間違ってはいない。先達はいつだって物事の本質を見抜いている。

話がそれた。とりあえず寒いのである。

今はまだ重ね着でなんとかなるレベルではあるが、そのうち家の中で「いやもうこれ一日布団から出ずに過ごしたほうがいいんじゃないのか」と言い出すので何らかの対策をしなければならない。私は暑さにも弱いが寒さにめっぽう弱い。前世は多分熊か蛇だったんだろうと思うレベルで苦手だ。恒温動物としてレベルが低い。

例年であれば基本的にこたつを出していたのだが、最近ふと、「…あれ? これ布団にこもってるのと同じじゃないのか」と気がついた。気がついてしまった。一回入ると出たくなくなるし、全てがこたつ中心の部屋に模様替えされる。その本質は「これ出たくない。動きたくない」である。

これでは電気代がかかるだけで損しているじゃないか。寝っ転がってたほうが楽だし。そのまま寝に入れるし。こたつ入って何するかって言われれば、ぼけーっとテレビ見て本読むぐらいのことだ。寝っ転がっててもできる。

思えば、こたつを出せば掃除機もかけにくくなるしホコリは溜まるし部屋が狭くなる。あれ、これ布団で過ごしたほうがいいんじゃないか!?

という主張をしたところ。「いいんじゃない?」という全く興味を持ってくれない、むしろそんなくだらないことで電話してくるな、なんならそのまま着信拒否リストに打ち込まれそうな低く暗い答えが返ってきたので、もぞもぞと布団から抜け出してこたつを出した。


嗚呼、人は他人なしには生きられないものである。

 

結局サンもムーンも予約させられた話

はろいんなのはろいん!


無邪気にそう言い放つ幼稚園年長組の姪をみて、私は頭を抱えた。昨今のハロウィンブームは幼稚園にまで進出していた。その姉は呑気に「トリック・オア・トリート」と呪文のようにつぶやき、私と同年代である母親は「ハロウィンってお菓子あげる以外に何するの? アップルパイとか作ればいいの? あ、ゆで卵に絵を描くんだっけ?」とトチ狂ったことを言っていた。それはイースターであろう。

その後、アメリカンなホームパーティのありったけの知識を総動員して、「カントリーマアム…? アップルパイ…? ニシンのパイ…? ケーキ? あ、七面鳥!?」などと連想ゲームばりに料理をつぶやいていたので流石に止めた。ケーキまでならともかく、丸焼きは確実に2ヶ月ほど早い。幼稚園児が「ニシンのパイー!」と言っていたので、多分昨日魔女の宅急便を見たのだろう。わかりやすい親子である。

私はニシンのパイはあまり一般的な料理じゃないということを幼稚園児に説きながら、そろそろこの「ハロウィン問題」から目を背け続けるのは不可能だろうなと感じ始めていた。

別に渋谷に繰り出してちょっと露出の激しいナース姿のお姉さんと乾杯したいわけじゃ断じて無い。室内ならともかく、10月の終わりは正直寒い。「ああ…あんなに足出して…冷えるのに…」という感想を持つのが関の山である。我ながら枯れているなぁと思わないでもないが、寒空の下で過ごすのは勘弁して欲しい。こちとら冷え性気味なのだ。

ハロウィンとはなんぞやという議論をするつもりは毛頭ない。東洋西洋入り乱れた上にお菓子企業がはじめたお祭りが全国的に定着している国である。もはや本質はハロウィンではなく、お祭りとなっている感がすごい。

断じて否定しているわけではないのだ。個人的にもお祭りは好きだ。遠くで見ながらちびちび煽るお酒が好きだ。だが渦中にいる人間から見れば賛否両論あるのは無視できない事実であろう。

そういった、私のような「条件付きでハロウィン賛成」という人間が多いように思う。まぁそれ以上に多いのは「興味ない」という層なのであろうが。が、幼稚園や小学校にハロウィンが浸透してきている事実を見るに、そういったそうもだんだんと減ってくるんじゃないかなぁと思う。

少なくとも単純に無くしたくはないなぁと姪姉妹を見ながら思うのである。

そんなことをボケーっと考えながら、買い物をしていたら、小学生の姉が走り寄ってきて、

「ねぇおじさん」
「お兄さんとお呼び」
「お兄さん、『トリック・オア・ポケモンサンムーン?』」
「……」
「あれ? 違う?」
「いや…え?」
「トリック・オア・トリートって『いたずらかお菓子』なんだよね? トリックがいたずらでトリートがお菓子で」

その後、答えに詰まっていると、幼稚園の妹まで真似し始める始末。母親は母親で「あら私が買わなくても良くなったわ」とこの事態を容認し始めよった。こいつ…!

 

誰だよ。小学校に英語教育取り入れようとかアホみたいな思いつきしたの。

それには反対するぞ、断じて。