月刊ハコメガネマガジン

好物はカレー。

いつだって評価の基準は他人である

さむい。


いやまぁ気がついたらすでに11月だし、寒くないわけがないんだが、どうにも「春」と「秋」については、油断しているフシがある。どちらも「冬」と「夏」の延長線上で過ごせてしまうからなのだろう。それで、「夏」から「秋」へ、引き返せないくらい寒くなって初めて「あ、これ冬だわ」となるのである。おまけに風邪をひく。

偉大なる先達は、「いや軽く風邪引いとかないと休むに休めないから、季節の変わり目に体調を崩すのは必要悪なんだよ」とトチ狂ったことを言っていたが、あながち間違ってはいない。先達はいつだって物事の本質を見抜いている。

話がそれた。とりあえず寒いのである。

今はまだ重ね着でなんとかなるレベルではあるが、そのうち家の中で「いやもうこれ一日布団から出ずに過ごしたほうがいいんじゃないのか」と言い出すので何らかの対策をしなければならない。私は暑さにも弱いが寒さにめっぽう弱い。前世は多分熊か蛇だったんだろうと思うレベルで苦手だ。恒温動物としてレベルが低い。

例年であれば基本的にこたつを出していたのだが、最近ふと、「…あれ? これ布団にこもってるのと同じじゃないのか」と気がついた。気がついてしまった。一回入ると出たくなくなるし、全てがこたつ中心の部屋に模様替えされる。その本質は「これ出たくない。動きたくない」である。

これでは電気代がかかるだけで損しているじゃないか。寝っ転がってたほうが楽だし。そのまま寝に入れるし。こたつ入って何するかって言われれば、ぼけーっとテレビ見て本読むぐらいのことだ。寝っ転がっててもできる。

思えば、こたつを出せば掃除機もかけにくくなるしホコリは溜まるし部屋が狭くなる。あれ、これ布団で過ごしたほうがいいんじゃないか!?

という主張をしたところ。「いいんじゃない?」という全く興味を持ってくれない、むしろそんなくだらないことで電話してくるな、なんならそのまま着信拒否リストに打ち込まれそうな低く暗い答えが返ってきたので、もぞもぞと布団から抜け出してこたつを出した。


嗚呼、人は他人なしには生きられないものである。

 

結局サンもムーンも予約させられた話

はろいんなのはろいん!


無邪気にそう言い放つ幼稚園年長組の姪をみて、私は頭を抱えた。昨今のハロウィンブームは幼稚園にまで進出していた。その姉は呑気に「トリック・オア・トリート」と呪文のようにつぶやき、私と同年代である母親は「ハロウィンってお菓子あげる以外に何するの? アップルパイとか作ればいいの? あ、ゆで卵に絵を描くんだっけ?」とトチ狂ったことを言っていた。それはイースターであろう。

その後、アメリカンなホームパーティのありったけの知識を総動員して、「カントリーマアム…? アップルパイ…? ニシンのパイ…? ケーキ? あ、七面鳥!?」などと連想ゲームばりに料理をつぶやいていたので流石に止めた。ケーキまでならともかく、丸焼きは確実に2ヶ月ほど早い。幼稚園児が「ニシンのパイー!」と言っていたので、多分昨日魔女の宅急便を見たのだろう。わかりやすい親子である。

私はニシンのパイはあまり一般的な料理じゃないということを幼稚園児に説きながら、そろそろこの「ハロウィン問題」から目を背け続けるのは不可能だろうなと感じ始めていた。

別に渋谷に繰り出してちょっと露出の激しいナース姿のお姉さんと乾杯したいわけじゃ断じて無い。室内ならともかく、10月の終わりは正直寒い。「ああ…あんなに足出して…冷えるのに…」という感想を持つのが関の山である。我ながら枯れているなぁと思わないでもないが、寒空の下で過ごすのは勘弁して欲しい。こちとら冷え性気味なのだ。

ハロウィンとはなんぞやという議論をするつもりは毛頭ない。東洋西洋入り乱れた上にお菓子企業がはじめたお祭りが全国的に定着している国である。もはや本質はハロウィンではなく、お祭りとなっている感がすごい。

断じて否定しているわけではないのだ。個人的にもお祭りは好きだ。遠くで見ながらちびちび煽るお酒が好きだ。だが渦中にいる人間から見れば賛否両論あるのは無視できない事実であろう。

そういった、私のような「条件付きでハロウィン賛成」という人間が多いように思う。まぁそれ以上に多いのは「興味ない」という層なのであろうが。が、幼稚園や小学校にハロウィンが浸透してきている事実を見るに、そういったそうもだんだんと減ってくるんじゃないかなぁと思う。

少なくとも単純に無くしたくはないなぁと姪姉妹を見ながら思うのである。

そんなことをボケーっと考えながら、買い物をしていたら、小学生の姉が走り寄ってきて、

「ねぇおじさん」
「お兄さんとお呼び」
「お兄さん、『トリック・オア・ポケモンサンムーン?』」
「……」
「あれ? 違う?」
「いや…え?」
「トリック・オア・トリートって『いたずらかお菓子』なんだよね? トリックがいたずらでトリートがお菓子で」

その後、答えに詰まっていると、幼稚園の妹まで真似し始める始末。母親は母親で「あら私が買わなくても良くなったわ」とこの事態を容認し始めよった。こいつ…!

 

誰だよ。小学校に英語教育取り入れようとかアホみたいな思いつきしたの。

それには反対するぞ、断じて。

 

女性に野球ネタは通じ辛い

居酒屋の注文は野球である。


なるほど、と膝を打った。確かに居酒屋のオーダーは打線に似ている。試合展開を読んで臨機応変に代打や代走を掛けるのにも似ている。投手の采配は回によって変わる。セオリーというものがあり、メニューそれぞれには暗に与えられた役割がある。監督は選手を率いてメークドラマしなければならない。ところでメークドラマってなかなかマヌケな語感であり字面ではないだろうか。日常生活で使うにはなかなか勇気がいる単語だ。

さて、そうと決まればオーダーを組まなければならない。残業続きで変なテンションになった私たちは、大いに盛り上がってオーダーを組んだ。


1 右 もろきゅう
2 二 たこわさ
3 三 シーザーサラダ
4 中 刺身の盛り合わせ
5 一 ホッケ
6 遊 手羽先
7 捕 ふろふき大根
8 左 だし巻き卵
9 投 鮭茶漬け

・無難である(同期)
・年寄りくさい。手羽先の冒険しなさ加減がすごい。せめて唐揚げに(後輩)
・置きに行ってる感がすごい。だけどふろふき大根と鮭茶漬けでバッテリーを組ましたのは評価する(先輩)


散々な言われようである。

だがしかし、言われてみれば肉気が無いにも程がある。魚中心のオーダーであることは明白であり、若干の胃のもたれが懸念されているところがにじみ出ている。なんということだ。ここまで性格が出るとは。


ちなみに後輩君のオーダー。

1 中 カルビ
2 遊 タン塩
3 一 ロース
4 右 ハラミ
5 三 ホルモン
6 二 サンチェ
7 左 サーロイン
8 捕 キムチ
9 投 冷麺

・お前これ焼肉屋じゃねぇか(私)
・なんでカルビ一番なの? そういうとこあるよね(同期)
・冷麺かクッパかビビンバかで戦争が起きそうな予感。DHで白飯を入れて欲しい(先輩)

若さ故の過ちが如実に感じられるオーダー。確実に後日胃がもたれる。と言ったら「そう言うと思ってサンチュ入れました」やかましい。いらん気遣いである。


先輩のオーダー。

1 一 タコのぶつ切り
2 遊 えだまめ
3 三 塩ダレキャベツ
4 右 フライドポテト
5 中 焼き鳥盛り合わせ
6 左 唐揚げ
7 捕 もつ煮
8 二 焼きおにぎり
9 投 たこわさ

タコ好きなのが丸わかり(同期)
・バランスはいいんだけど、なんだろうこの違和感…もつ煮?(私)
・ポテト忘れてました(後輩)

無難だなーと思いながらも、最後にたこわさが来るあたりちょっと不思議なオーダー。気遣いだぜ気遣い。とは先輩の談ではあるが、タコ好きの自分が前に出ちゃってる感がすごい。


と、仕事そっちのけで盛り上がっていたら、終電逃したというオチ。

誰か気づきそうなもんだ…。

 

本日の夜は

名作というものは何度見ても名作である。それが名作たる条件である。

 

という有名な一説がありますが、冷静になって考えてみると、ニワトリタマゴもいいところで、んじゃあ新たに名作を作るためにはどうすればいいかという問いには一切答えてないところがナイスである。

名作に理由なし。王道には王道たる理由があるが、「名作」とは、言葉で表せない魅力があるように思う。

私はどちらかと言うと、映画を見た後に、大体の場合はあーだこーだ言いたい人なのだが(こないだの君の名は。の感想文を見れば分かるが)、この映画は、「ああうん。いいよね」の一言で終わって、自分の中で自分だけで楽しめればいいやという自己完結でも何ら不満じゃない数少ない映画でもあります。

というわけで本日の金曜ロードショーは「カリオストロの城」です。

 

rocketnews24.com

 

読むだけで映画が再生されるんですが…。

幸せの青い鳥

いいことないかなぁと日々を過ごしていても、多分そんないいことはない。いいこと、嬉しいことは自分から作りに行かなければならないという偉人の言葉がある。まったくもってそのとおりだと思う。


まったくもってそのとおりだとは思うのだが、流石にそれで「僕はパンツが見れれば嬉しいからスカートをめくりに行く」というのは拡大解釈が過ぎるし、過去の偉人もまさか自分の言葉が犯罪行為の正当化に使われるとは微塵も思うまい。おおよそその言葉を吐いた後輩くんは目下のところツッコミすらされない有様で、放った言葉だけが宙に浮いている状態であり、ボケた本人としては今すぐカバンを抱えて逃げ出したいらしい。ボケ殺しもここまでくれば凄惨である。

とまあそんなこんなで散々な目に遭っている「スカートめくりに行く」発言ではあるが、果たして、「スカートをめくったこと」に起因したパンツを見ることは、果たしてどれほどの幸福度を得られるのだろうか。

またとんでもないところから話を展開しているもんだと自分でもびっくりなのだが、能動的に享受した幸福と受動的に享受した幸福の違いというのは、文化人類学や心理学分野で度々議論されている、いわばれっきとしたお硬い学問なのだ。大学時代にはそれらのことで論文もこさえた。真面目系バカの本領発揮である。流石にパンツの話はしなかったが。

話を戻そう。まずは「見る」ことの定義からだ。

「見る」とは、行動だ。要するに自らが「見たい」という欲求の元、能動的に、自ら動いて対象物を視界に収める行動を指す。

対して、「見える」とは受け身な部分が多い。主体は対象物にあり、自らが固定している視界に対象物が入り込んできたというニュアンスを持つ受動的行動だ。

この「見る」と「見える」の違いは、能動受動、要するに、自身の欲求が介在するかどうかという点にある。

欲求の有無というのは心理学的に見て、その後に受け取る幸福度合いに差があることが立証されている。今回の場合で言えば、見るという能動的な行動は、リスクをはらむ点が論点となる。

この議論において、どちらのほうがより幸福度が高いか決める際に難点となるのが、どちらの主張にも納得がいく部分にある。すなわち、

・「見る」という行為は、リスクを孕んだ上での報酬を期待する行為であり、そのカタルシスは、リスクを犯す分だけ上昇し、満足度が高くなる。

・「見える」という行為は、意図しない上での行為であり、単純な幸福度のプラスである。

上記二論、つまりは二次元ベクトルの度合いの問題となるのだ。

この理論に決着をつけるには、ここに個人の価値観というものが加味されなければならないのだが、そんな普遍性の低い結論を導き出したところで、納得が得られようはずもない。人はかくも悩み続けるものである。


という話を後輩くんにこんこんと説いたら、

「いや、重要なのは見られたあとのその女性の反応なんじゃないですか?」

と、真理を語り始めたので、私はこいつを「本当は天才なんじゃないだろうか」と密かに思っている。